三田歴史資料集蔵の先進地視察レポ 綾部の文化財 綾部の文化財一覧表へ
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| いかるが民俗館の大嶋代表幹事(文化財を守る会会長)、綾部史談会古文書部会の山崎先生(史談会会長)、綾部市資料館の近澤館長、媒林先生など一行19名が参加して、行政バスで9時に出発。舞鶴高速道路経由で、さんだ歴史資料収蔵センターに直行しました。 | 民具の展示:もったいないの世界 この展示室には、@さんだのあけぼの、Aさんだと古社寺、Bさんだと城、Cもったいないの世界、Dさんだの空襲が展示されていました。 |
さんだの空襲 1945年(昭和二十年)七月二十九日午前九時四十分頃、三田町において学童四人、婦人一人が米軍艦載機の機銃掃射によって尊い命を落としている (HP九鬼奔流の太平洋戦争と三田より) |
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「文化財ボランティアさんだ」
平成10年に市教委主催で行った「さんだ文化財ボランティア」修了生有志で結成。現在会員数25名(男女半々、60歳以上が大半)。活動:例会、分科会、会報(文ボラ通信・季刊)、文化財研修バスツアー、市内バスツアーガイド、三田の古道を歩こうガイド、旧九鬼家住宅資料館公開ガイド、小中学生の見学・講師、収蔵センター企画展示、トライやるウィーク講師、ふるさと探検隊企画・講師、史蹟・文化財ガイドなど |
展示室で説明のボランティアさんだ 大槻様(綾部のご出身とのことです)、中後 茂様、平田 学様(社会教育文化課) 小中学生の見学・講師は、平成16年度実績:23回、1821名でオリエンテーリングの他、火おこし、灯り、洗濯、石臼、農具などの実習も行われるとのことでした。 |
2階にある資料室(収蔵庫) 整理されデーターベース化されて写真、説明のファイルが完備している。資料冊子として出版済み→抜粋紹介。WEBの対応は考慮中とのことでした。 |
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| 九鬼陣屋の模型 |
三田城の資料を参観中
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三田城関係の主な出来事 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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九鬼の殿様???集 むかし三田市内には沢山の城がありました。例えば「三田市史」の「中世城館資料」で紹介されている城や陣屋だけでも37を数えます。今回は一般に「三田城跡」と呼ばれる、三田藩主だった九鬼氏が居館としていた「城」を中心に、九鬼家の足跡を辿ってみることにしました。現在、市立三田小学校と県立有馬高校になっている処にあった「城」は、古来、有馬郡の中心だったところです。 Q1:九鬼家のルーツは? 織田信長の「石山本願寺攻め」は、世界初の鉄甲船軍団を率いた九鬼嘉隆の活躍によって、勝利に終わりました。嘉隆は、豊臣秀吉の朝鮮出兵にも水軍の大将として参加するなど大きな足跡を残しました。その子守隆も活躍して、九鬼家は伊勢・志摩両国で5万6千石を領有するようになりました。九鬼嘉隆以来の本拠は「鳥羽城」(現在の三重県鳥羽市」でしたが、ぞの先祖は九鬼浦(尾鷲市)からきたといわれています。これが九鬼家のルーツです Q2:何故、海のない三田へ来たの? 城ではなく陣屋だったのは何故? 守隆の嫡男良隆は体が弱く、五男の久隆に家督を譲ることに決めました。ところが、この相続問題がこじれて、久隆は海のない三田に転封されます。ただその時、徳川幕府は久隆に「城主格」を認めなかったため、三田藩主の居館は「城」ではなく、「陣屋」と呼ばれるようになりました。その後、第10代隆国の時「城主格」を許されますが、結局、天守は造らず、陣屋形式のまま明治維新を迎えることになったのです。 Q3:最後の殿様はどんな人? 第13代藩主九鬼隆義の時代に明治維新を迎えました。隆義は、進取の気質に富んだ人で、白州退蔵や小寺泰次郎らを登用して藩政を改革すると共に、県下諸藩に先駆けて西洋砲術による兵制改革を導入するなど、思い切った近代化を図って幕末を迎えました。明治維新後、隆義は、医薬品や食料、雑貨などを扱う輸入商社「志摩三商会」を始めると共に、生田川付け替えできた(だれも買おうとしなかった)土地を買って大きな利益を上げました。 また、隆義が支援した「神戸女学院」は立派な学校に成長しており、北海道・浦河に入植・開拓した株式会社制度の「赤心社」も、多くの開拓事業が姿を消して行ったなか、見事に激動の世を潜り抜け、120数年を経てなお健在です。 「九鬼姓」は、こんなに沢山あった! 三田で「九鬼さん」と言えば、誰もが「藩主の九鬼家」を思い浮かべます。でも、藩主の九鬼家以外にも「九鬼姓」を名乗る人が何人もいたのです。藩士一族の人は勿論ですが、元は「西」とか「川|面」とかの姓で仕えていた家臣が、素晴らしい功績をあげて、藩生から「九鬼姓」を名乗ることを許されたり、「九鬼姓」の家に養子に入って家督を相続し、「九鬼姓」を名乗ることになった人たちもいました。時代によって異なりますが、それぞれの時代に5〜16家の人達が「九鬼姓」を名乗って、摂津・三田藩を支え、盛りたてて活躍したのです。このような殿様の血筋以外の「九鬼姓」の人々の中には、日本初の私立博物館である「三田博物館」を創った九鬼隆一や屋敷町の旧九鬼家住宅を建てた九鬼隆範などがいます |
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バスの車中で綾部史談会会長の山崎先生より配布された資料。
三田の九鬼氏 歴代藩主 寛永10年 摂津、有馬の内 3万石 氷上郡の内 6千石
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| 三田歴史資料収蔵センターにマイクロバスを止め、歩いて心月院に向かった。 心月院の標柱 |
このような歴史の散歩道の案内標識が道筋に建てられている。 M心月院歴史の散歩道 本尊:釈迦牟尼仏 寛永10年(1633)に鳥羽より移封された初代三田藩主九鬼久隆は、この地にあった梅林寺を増築し、寺号を改め、天翁山心月院と称した。鳥羽の菩提寺常安寺の覚雄是的和尚を迎え開基し、九鬼家代々の宗廟とした。寛文5年(1655)に山号を清涼山とする。境内には、先代守隆から13代隆義まで、歴代三田藩主の墓石がならぶ。三田市教育委員会 |
心月院境内略地図 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 心月院山門 | 心月院総門前 | 心月院本堂・位牌堂 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 心月院経堂 | 清涼山心月院九鬼歴代藩主(上記関連ブログ参照)霊廟の墓石を調べる、綾部史談会古文書部会の先生方、および、いかるが民俗館のメンバー。 9代〜12代霊廟にて |
13代九鬼隆義霊廟 広々とした霊廟であった |
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| 13代九鬼隆義霊廟にて 九鬼家一族の多くの墓石が整然と数列にわたり並んでいる。熱心に碑文を読み取る先生方 |
九鬼隆一霊廟にて ここにも関係者の墓石が並んでいる。日本初の私立博物館である「三田博物館」を創った九鬼隆一氏の顕彰碑も建てられている。 |
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三田遊inマップから、古地図:この古地図を見ながら九鬼藩武家屋敷跡を偲びながら歩いた。武家屋敷跡 寛永10年(1633)志州鳥羽より移封された九鬼氏に従い、また新規に召抱えられた藩土たちが往んだ屋敷町。縄張りの上新しくつくられたところだけに整然とした区画割になっている。どこの侍町も同じように道路は突き当りが多く、戦さの配慮がなされていた。長屋門や石段、土塀などに当時の面影が残る、 御下屋敷跡 九鬼藩主の御下屋敷のあったところ。地続き川べりに川遊びの御舟小屋があった。明治11年の郡区町村編成法によって翌年有馬郡2町11カ村の郡役所がここにおかれた。つい最近まで表門(黒門)かあったが、金心寺へ移された。邸内の築山、家臣寄贈の石燈龍はそのままに置かれている。 |
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| 九鬼藩城下町:三田歴史資料収蔵センターに綾部市の行政バスをおいて、九鬼藩霊廟のある心月院に行き、さらに九鬼藩城下町跡(開発され区画整備中の空き地になっていた)を通り、三田小学校と県立有馬高校の間の下り坂を下りているところ。 | 県立有馬高等学校:九鬼藩城館跡 | この道沿いの濠は、本丸館と二の丸との境の掘。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 九鬼藩城館跡の説明を「文化財ボランティアさんだ」の方に聞く参加者。 | 有馬高校の歴史と周辺の古地図 約1300年前定慧上人により金心寺が、この地に創建されたが、豊臣秀吉の三田城攻略の時焼失した。寺はその後屋敷町に再建され、明治2年現在の西山丸岡に移転した。 なお寛永10年、九鬼久隆公が鳥羽より三田に移封され、この地に居館を構えた。三田小学校及び県立有馬高校は、その跡地に建てられている。寄贈 清陵会(有馬高校卒業生同窓会) |
三田城跡 ふるさと街道 市立三田小学校地は、江戸時代鳥羽より移封された藩主九鬼氏の城館跡である。県立有馬高等学校と三田小学校との間にある道沿いの濠は、本丸館と二の丸との境の掘であった。九鬼氏以前の領主は、荒木、山崎、有馬、松平と続いたが、その居城は明らかでない。旧市民病院裏の舌状高台あたりを「古城」と呼んでいるので、名のとおりそこであるかも知れない。三田が門前町として開けてきたところだと云われるのは、奈良時代に金心寺という大寺があったからである。城跡から屋敷町一帯にかけて、古瓦や礎石、中世の石造物などが出土する。 |
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| 本丸と二の丸の境の掘 | R三田城跡 歴史の散歩道 県立有馬高等学校付近は、天正年中(1573〜)伊丹有岡城主、荒木摂津守の武将、荒木平太夫の居城 のち山崎堅家、有馬則頼、松平重直、そして寛永10年(1633)九鬼久隆と城主が代わる。三田小学校付近は、九鬼藩主の居館、現校舎地下に御台所跡が保存されている。七曜橋下が大手門筋 三田市教育委員会 |
三田九鬼藩城跡の石標と地図、歴史の散歩道案内 三田小学校の端にあり、学校への車道(ゲート閉門中)がある。 |
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| 旧九鬼家住宅資料館(平成10年県指定) 旧九鬼家住宅は、三田藩家老職を代々勤めた九鬼家の住宅で、明治初期(明治8年前後)に建てられた全国でも数少ない疑洋風建築の建物である。疑洋風とは、当時の大工が洋風建築を取り入れて造った洋風と和風が混在したもの。住宅の設計は当主であった隆範氏が行い、その図面も現存している。 |
旧九鬼家住宅の戸口をくぐる。仕掛けがあり、2階に引き上げられる入り口で、バランス錘がついた滑車式。入り口を引き下ろすと小さな潜り戸が付いているが、かけやで叩き潰さない限り難攻不落の用心戸になる。 | 座敷で「文化財ボランティさんださん」の説明を受ける。 旧九鬼家住宅の設計者、九鬼隆範 九鬼隆範は、天保6年(1835)に三田屋敷町に生まれました。明治3年(1870)に三田藩の 家老、九鬼伊織隆継の長女と結婚し養子となります。砲術、築城術、測量術等を学び、明治維新後は技術者として鉄道設計等に携わり、日本の鉄道開発に貢献しました。 |
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| 二間続きの座敷に座って説明を熱心に聞く。 | 庭園は日本式。白塀で囲われている。 | 台所は土間。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 三田市旧九鬼家住宅資料館の説明 | 庭から見ると、下は和風、2階は洋風建築。 2階のテラスが見える。 |
2階は洋室になっている。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 三田市旧九鬼家住宅資料館 旧九鬼家住宅は、明治初期(明治8年前後)に建てられた全国でも数少ない擬洋風建築の建物で、平成10年4月7日に兵庫県重要有形文化財に指定されました。 擬洋風建築とは、当時の大工さん達が、洋風建築を取り入れて造った洋風と和風が混在した建物のことです。この住宅は、三田藩家老職を代々勤めた九鬼家の住宅として建てられました。明治の初め頃の建物は、設計者等が不明な例も多いのですが、旧九鬼家住宅の設計は、当主であった隆範が自ら行い、その設計図面も残っていました。また、鉄道技師であった隆範が蓄積した鉄道関係図面やその他関連資料等、歴史的にも極めて貴重な資料も見つかりました。 建物の特徴
主屋は、1階は板張りと漆喰で壁を仕上げ、格子戸、障子戸、板戸を使用した和風の造りになっています。そして、2階の壁は漆喰で、窓はよろい戸となっています。東半分はベランダとなっており、円柱や柱間は漆喰で塗り込められています。また、柱間をアーチ状に仕上げたり、くり形付きの手すりを設ける等、洋風の趣に造られています。2階東半分は洋間となっていますが、床に畳を敷いたり、壁や天井は、壁紙の代わりに日本的な襖紙を張る等、洋風の技法を取り入れつつ、日本建築の技法が生かされています。 |
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三田歴史資料集蔵の先進地視察は、この旧九鬼家住宅資料館から、九鬼藩城下町を歩いて収蔵センターまで戻り終了。長時間にわたりご案内、また貴重な資料の多々を頂きました「文化財ボランティアさんだ」の皆様などに心からのお礼を申し上げます。
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