世界文化遺産登録記念「吉野の国宝・文化財を訪ねて」綾部の文化財へ
・期日:6月8日(水)

・訪問・研修先:金峯山寺・国宝蔵王堂、如意輪寺と後醍醐天皇陵、竹林院群芳園、吉水神社、吉野朝宮跡等
・参加費:お一人9、000円
(昼食、拝観料、写真込み


「綾部市文化協会後援」第37回 春の研修旅行   事務局 四方續夫

見学箇所についての紹介
 平成16年6月開催のユネスコ世界遺産委員会で日本で第12番目の世界遺産として、奈良県、和歌山県、三重県の広範囲にわたる「紀伊山地の霊場と参詣道」が登録決定されました。吉野(金峯山)高野山熊野三山(本宮・新宮・那智)の霊場とこれらの霊場をつなぐ参詣道が世界遺産に登録された趣旨並びに世界平和を広く、日本そして世界の人々に訴えるものです。本宮から吉野に至る大峰道は山伏の修行の道として修験道の開祖・(えんの)行者(ぎょうじゃ)小角(おずぬ))によって七世紀に開かれたもので、日本独自の山岳民族宗教・修験道に加え、古代、吉野は「えしぬ」とも呼ばれ、それは「始まりの地」を意味すると伝えられ、神武東征時、大和平定の最初の地だったのかも知れません。又、吉野の地は古来から吉野離宮として「日本書記」にも記載されている通り、応神天皇の十九年吉野の宮に行幸したことを筆頭に、持統天皇は三十三回、そして、壬申の乱では大海(おおあまの)皇子(おうじ)が吉野に入り決起し、のち天武天皇になられたことでも有名です。南朝の後醍醐天皇陵、源義経と静御前の悲恋の場、又松尾芭蕉は二度この吉野山を訪れ多くの句を遺した事でも有名です。見所も、多数有り次に列記します。

1.如意輪寺と後醍醐天皇
(近畿三十六不動尊三十番霊場・別時念仏道場大和二十五霊場・本尊如意輪観音)大和国吉野山如意輪寺は、()尾山(おのざん)椿(ちん)()(いん)と言う。中千本の桜樹のあいだ、緑の松柏(しょうはく)峰に連なる山腹にある当山を、陽春四月桜花咲き乱れ香雲靉靆(あいたい)たる中に、あるいは、秋の紅葉錦を布くとき、あるいはまた、枯れ木おおう白雪の中に望見すると、大小の伽藍甍を配して連なり、けだし、天下の絶景これに勝るものはない。現在、如意輪堂(本堂)・多宝塔・御霊殿・幽香楼・報国殿・宝蔵・鐘楼・茶所・庫裡等の建造物がある。当寺は、延喜年間(901〜923)文章博士・三好善行の弟で、醍醐天皇の御帰依を被った日蔵同賢上人の草建により、元は金峰山寺の塔頭(たっちゅう)でもあった。後醍醐天皇が吉野に行宮(あんぐう)を定めたときに、勅願寺となった。正中いらい寺は衰退したが、慶安三年(1650)文誉鉄牛上人が本堂を再興し、真言宗から浄土宗となった。

 の如意輪堂をバックに号車毎に記念写真を予定しています。

後醍醐天皇と楠木正行(まさつら)
 元弘三年(1333)専横の北条幕府を倒し、建武中興をなしとげた後醍醐天皇は足利氏との争いで、延元元年(1336)京の花山院より(のが)れ吉野へ御潜幸、以来吉野行宮に過ごされた。当寺は叡信特に篤く吉野朝の勅願寺となった。延元四年(1339)天皇は病床ににつかれ「身はたとえ南山の苔に埋むるとも魂魄(こんぱく)は常に北()の天を望まん」と都にあこがれつつ崩御された。天皇の御遺骸をそのまま当寺の裏山に葬られたのが「塔尾陵」である。次の後村上天皇の正平二年十二月二十七日(1347)楠木正行の一族郎党143人が大阪府の四条畷で、足利氏の武将・高師直との決戦に向かうに当たり、吉野の皇居に天皇と今生の別れを告げ、前帝の御陵参拝後、如意輪堂に詣で、髪を切り仏前に奉納、過去帳に姓名を残し、最後に、正行は(やじり)をもって御堂の扉に「かゑらじと かねておもへば梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる」と辞世の歌を残して戦に向かい弟正時と共に最後をとげた。この扉は宝物館にある。

宝物館
J正行公辞世之扉
N金剛蔵王権現木像(国重文・鎌倉時代)
 源慶作(運慶の高弟)で桜の一本木造で蔵王権現は元来悪魔降伏(ごうぶく)の佛で右手右足を挙げ天地の悪魔を鎮めんとする形相は眼光炯々(けいけい)として辺を圧する感に打たれる。しかしその恐ろしい御顔のなかにも身ら漂う慈悲心の現れを見逃すことは出来ない。全身には精巧な切金模様が入り御目は水晶、後ろに燃える火焔の勢いも亦見るべきもので権現の像としては他に類がない。
同右御厨子(国重文)御厨子も同時代の作であり、吉野の八神社の祭神で有名な木花咲耶姫の姿も見える。
R大涅槃図(中国の唐代620)
趙昌筆重美で釈尊一代記が画かれているがこの様な例は日本に二、三点のみと云う貴重なものである。
 他に約五十五点の重要な文化財が保管展示されています。

 松尾芭蕉の句碑  御廟年経て忍は何をしのぶ草
駐車場から如意輪寺へ徒歩で五・六分掛かります。参拝見学は後醍醐天皇陵を含めて一時間で要領よく見学をお願いします。帰りは登りで八分位です。出発は十一時四十分を予定。

竹林院(ぐん)(ぽう)(えん)名園の宿と昼食
 ここまではバスが入ります。以降は徒歩での見学となります。号車毎の記念写真を予定しておりますのでご協力をお願いします。
竹林院はもと椿山寺と称し、聖徳太子建立の一寺と伝えられており、古来より山伏修験者の宿坊として利用され、太閤秀吉の遺品も多く、西行法師、細川幽齋等の多くの文人、墨客、一般旅行者の宿として今日に至っています。昭和56年には昭和天皇皇后両陛下も宿泊された宿であり、現在は修験宗の単立寺院である。
 この竹林院には大和三庭園の一つにて群芳園と呼ばれ、室町末期第21代尊祐が大峰山上に竹林院を建立したとき、大峰山の景観を山下の竹林院に移して庭園を築造したのに始まり、豊臣秀吉の吉野観桜の折り、千利休が桃山風に修築、細川幽齋が改修したといわれる、桃山風の地泉回遊式借景の名園がある。 庭を見学後、ここで昼食をします。

電話:074631218081 午後一時ここから徒歩で見学を始めますが、ここの駐車場にバスは待っております。この最終出発は三時三十分(時間厳守)でお願いします
 竹林院のすぐ前に「(さくら)本坊(もとぼう)」がある。大海皇子が、天智十年(671)京都からのがれ、吉野の「桜本坊」の前身・(ひの)()離宮にとどまっていた時、夢で咲き誇る桜を見、役小角の高弟日雄角乗に占わせると「桜の花は花の王といわれる。これは皇子が必ず皇位につく知らせである」と答えた。皇位についた天武天皇は角乗に命じて一寺を建立した。これが「桜本坊」である。境内には「天武天皇夢見の桜」と名づけた桜木や、樹齢三百五十年を経たギンモクセイの巨木がある。この桜本坊には白鳳期の銅造釈迦如来像(国重文)など多くの重要文化財を保存されている。

3.勝手(かって)神社
 吉野山口神社ともいわれ、金峰山の山の神、水源を養う雨の神、又は軍神として名高い。現社殿は慶長九(1604)年豊臣秀頼が改築したが、二度ほど火災にあっているが、静御前が捕らえられ心ならずも法楽の舞を舞わされ、そして鎌倉へ送られた事で有名。鎌倉では頼朝の前で「吉野山峰の白雪ふみわけて入りにし人のあとぞこひしき」と舞って、義経をしたい、一座の関東荒武者を感動させたという。    

(注)吉野(よしの)(だて)
 吉野山は、馬の背のような尾根の上に開けた所のため、道の両側の家屋は、表から見るとどれも平屋か二階建てであるが、家の裏は急な崖のため、家屋は下方へ二階、三階となっています。これが吉野建て(吉野造)と呼ばれています。

4.吉水(よしみず)神社
(今回世界遺産登録の奈良県の六社寺の一つで国重文の書院等多くの文化財がある。御祭神 第九十六代後醍醐天皇・楠正成公・吉水院宗信公)又、別格本山で大峰山寺五護持院の一つである東南院(修験本宗)の前に吉水神社の鳥居がある。 
 これをくぐって坂道を下ると「(これ)(より)吉水院」の標石があり、石段上に山門がある。標石の通り明治の神仏分離の際(明治八年)までは吉水院と云う寺であり、白鳳年間(凡そ千三百年前)役行者が大峰山で修行したとき、庵室の跡に建立したのが始まりと伝える古い吉野修験宗の僧坊であった。
 延元元年(1336)京より免れた後醍醐天皇は吉水院宗信の援護のもとに当社を南朝の行宮と定められた。かくて天皇が当社に第一歩を記されてよりかの悲壮な吉野朝四代五十七年に渡る血涙の歴史の第一頁が開かれここに南北朝の対立が始まったのである。天皇はこうしたへき遠の地に憂悶数年を過ごされ、悲憤の最後を遂げられたのである。即ち当社はその南朝の御本家に当たり現在吉野朝、唯一の行宮である。
 この神社が有名になったのは、その由緒もさることながら現存する書院(国重文)が日本住宅建築史上最古の位置をしめているからである。即ち我が国書院建築史の第一頁に位する本格式の住宅建築で現在日本住宅の源流をなす最古の実例として数々の珍しい手法が見られる初期書院造の代表的傑作である。「義経潜居の間」は室町初期の改築で床棚書院の初期の様式を伝えるきわめて古風な遺構であり「後醍醐天皇玉座」は後年秀吉が花見に際し修理したもので豪華な桃山時代の風格を残した書院でこれら両期時代の特長が比較でき真に興味深いものがある。
 花にねて よしや吉野の吉水の 枕の下に 石走る音
 この書院の下を今も流れ続ける瀬古川を歌われた後醍醐天皇。
 文禄三年(一五九四)豊太閤が当社を本陣として盛大なる花見の宴を催し数日滞在されて歌の会、お茶の会、お能の会を開いて豪遊された時の歌。
 年月を 心にかけし吉野山 花の盛りを今日見つるかな
 所蔵の文化財は頗る多く、百二十数点にもなる南朝の資料は日本一である。
 境内には中千本・上千本一帯が展望できる「見わたしの いとよき所」、「桃山時代の小庭園」、「義経駒つなぎ松跡」、「義経馬蹄跡」、「弁慶力釘」などもある。

役行者・修験道と金剛蔵王権現
 役行者は七・八世紀の山岳修行者で、修験道の開祖。伝説では生まれは奈良県御所市芽原の吉祥(きっしょう)草寺(そうじ)(山田哲寛住職)に舒明天皇六年(634〜701)にお生まれになったと云われ、檀家がなく、荒れるがままであった本堂を六百年ぶりに平成21年の役行者生誕1375年までに建て直そうと云うものである。
 役行者は葛城山で修行。金峯山上で千日の修行に入り、汚濁に満ちた世の中に衆生救済の道を求めて仏の出現を祈っていたところ、修験道の本尊・金剛蔵王権現を祈り出されて大峯山などに霊場を開かれた。又、その姿を山桜に刻まれた。それ以来、人々は桜を権現様のご神木として大切にし、昔は「一枝を伐るものは一指を切る」という厳しい掟があった諭旨。又多くの人々が桜木を寄贈して今日に至ります。

5.(きん)()山寺(せんじ)金峯山修験本宗総本山・世界文化遺産登録)と金剛蔵王権現

 吉野山から山上ヶ岳(大峯山)に至る金峯山は万葉の昔から聖地として知られ、多くの修行者や貴族が足跡を印している。 
 白鳳年間(七世紀末)修験道の開祖・役行者がこの金峯山を道場として修行され、蔵王権現を感得し、その姿を桜の木で刻み、お堂を建ててお祀りした。これが蔵王堂であり金峯山寺の草建である。
蔵王堂(国宝)は金峯山寺の本堂で現在の建物は天正二十(1592)年に建てられたもので高さ34メートルは東大寺に次ぐ巨大なお堂である。前には「四本桜」があり、元弘三年二月三日(1333)に大塔宮護良親王が北条勢に攻められ吉野落城を覚悟して最後の酒宴をされた所です。又、内陣に入り、四年に一回の密教儀式「伝法潅(でんぽうかん)頂上(じょうえ)」以外に私達の目に触れることの出来ない三体の秘仏・金剛蔵王権現を特別拝観します。
 金剛蔵王権現の右手にある三鈷(さんこ)(しょ)は天魔を砕く相で、左手の刀印は一切の情欲や煩悩を断ち切る剣。左足で地下の悪魔を押さえ、右足で天地間の悪魔を払う姿を現されている。さらに、背後の火炎は偉大な智慧、御身の青黒色は深い慈悲を現している。まさに大自然の霊威そのものの発現とも思われる金剛蔵王権現は、神であり、仏として神仏混淆を旨とする修験道のご本尊として祀られています。三体の総高は釈迦如来(中央)7.3メートル、弥勒菩薩(向かって左)は5.9メートル、千手観音世音菩薩(右)は6.1メートル。国の重要文化財で日本最大の秘仏です。釈迦如来、千手観世音菩薩、弥勒菩薩を本来の姿とする変化身です。三尊はそれぞれ過去、現在、未来を現し、三世にわたって私たちを守って下さる守護仏でもあります。心静かに拝めば、すべてを認め一切を許す「(じょ)(こころ)」を感じとることが出来ましょう。

南朝妙法殿(吉野朝宮跡)
 後醍醐天皇の行宮となった実城寺(金輪王寺)跡に建立されており、南朝四天皇並びに忠臣の霊を祀る。本尊・釈迦如来像は重要文化財です。

7.仁王門(国宝)
 現在の建物は康正二(1456)の室町期の再建で、蔵王堂山上に向かい南面し、この仁王門は北面している。吉野熊野修験道には本山派(天台宗聖護院)・当山派(真言宗三宝院)の二派があり、その入峰順路が、本山派は熊野から吉野へ北へ進む「順峰」、当山派は吉野川六田の渡しから熊野へと「逆峰」をとるため、蔵王堂を挟んで南北に相対した門を必要とし、南の二天門に対する北門である。

8.(かね)鳥居(とりい)国重文
 安芸の宮島の「朱塗りの鳥居」、大阪四天王寺の「石の鳥居」とともに日本三大鳥居の一つである。「発心門(ほっしんもん)」の扁額は空海・弘法大師の筆と伝えられる金峯山入峰の第一門である

記念写真を全員で、吉水神社、国宝「蔵王堂」前で計画しています。ご協力をお願いします。(注)最終出発は竹林院のバス駐車場を午後三時三十分(時間厳守)です。途中ではぐれられた方はこの駐車場に時間厳守でお戻り下さい。
(注) 尚、奧千本方面へは今回参りません。世界文化遺産に、指定された「(きん)()神社」や「吉野水分(みくまり)神社(じんじゃ)」等が在りますが、普通乗用車のマイクロバスのみ通行可能です。








「綾部市文化協会後援」  第三十七回春の研修旅行参加のご案内         事務局 四方續夫

見学箇所についての紹介
 世界文化遺産登録記念「吉野の国宝・文化財を訪ねて」と称し、「国宝・金峰(きんぷ)山寺(せんじ)(蔵王堂)」とその「国宝・仁王門」を中心に見学します。金峰山寺の宗務総長・田中利典師は綾部・淵垣の林南院の住職で、世界文化遺産登録に大変な御尽力された方です。又、明治維新政府は神仏分離のみでは手に負えず、修験道廃止令を発して、修験道を木端(こっぱ)微塵(みじん)にしましたが、全国の神社化された修験道寺院のうち、唯一本来の姿に復したのがこの吉野山金峯山寺である。途中、吉水神社の鳥居の前に別格本山で大峰山寺五護持院(修験本宗)の一つであり又、大峰奧掛修行のスタート東南院(ご住職は田中利典宗務総長の弟さんです。)も見れます。この御縁もあり、今回の研修旅行の運びとなりました。大峰山修業の事は書ききれません。田中利典宗務総長著書・白馬社発行「修験道っておもしろい!」を是非お読み下さい。現地でも販売しています。
 ご夫婦で、ご家族で、知人友人をお誘いの上、ご参加頂きますようご案内申し上げます。

一、期日 平成17年6月8日(水)
二、集合場所・時間 JR綾部駅北口   午前6時45分(時間厳守) (お車でお越しの方は北口西側の市営の有料駐車場をご利用下さい。)
 出発は7時、帰着は7時30分を予定しています。
三、見学箇所
(一)如意輪寺と後醍醐天皇(とうの)()(りょう)
 宝物館では国重文の「木造厨子入蔵王権現」や後醍醐天皇の宸筆「七言律誌」の賛を見学します。
(二)竹林院(ぐん)(ぽう)(えん)は大和三庭園の一つで見学後、ここで昼食をお楽しみ頂きます。
(三)歩きながら、勝手(かって)神社を参観します。(金峰山の山の神、水源を養う雨の神です。)
(四)世界文化遺産登録・吉水(よしみず)神社は後醍醐天皇南朝の皇居であった、書院は国重文で特別拝観します。又、ここは豊太閤豪華花見の本陣でもあり、ここからの風景は正に絶景です。
(五)世界文化遺産登録「国宝・金峯山寺(蔵王堂)とその「国宝・仁王門」の参観。
 (特に、世界文化遺産登録記念で、日本最大の秘仏で本尊・金剛蔵王権現特別ご開帳で拝観できます。6月30日で終わりです。)
(注) (六)の見学は希望者のみとします。
(六)吉野朝宮跡、や「国重文の(かね)の鳥居」も見学します。
四、参加費 お一人9千円(貸切バス代、心付、拝観料、手造り記念写真2枚を含みます。)
五、募集人員 九十名(京都交通貸切バス2台を予定。) (但し、満員になり次第締め切ります。)
六、申込方法 五月十七日(火)までに参加者全員の氏名・〒番号・住所・電話番号を明記し、葉書にて申し込み下さい。(尚、電話での申し込みはお断りします。
七、申込先 〒番号623−0004 綾部市多田町後路二八番地  四方續夫 宛
八、受付と出発案内等は、申し込み受付後、葉書にてお知らせ致します。
 尚、研修旅行ご参加にはこの「会報六0号」を持参頂くようお願い申し上げます。 更にご参加者には当日、現地の地図等資料を差し上げます

行程表

綾部駅北口=綾部IC=(舞鶴若狭道)=中国道・西宮名塩PA==(近畿道・南阪名道)=
午前7:00出発(時間厳守)       (休憩)8:30


=吉野路大淀iセンター=如意輪寺・後醍醐天皇陵竹林院群芳園・庭園見学後昼食
9:55(休憩)10:10 10:40〜11:40 11:50〜12:10午後12時

====勝手神社 ==吉水神社参拝・書院見学==金峰山寺本堂(蔵王堂内陣特別参観)
50分徒歩にて出発。              14:00〜14:35

吉野朝宮跡 ===国宝・仁王門 ==銅の鳥居 ==竹林院駐車場出発
 (ここから班別行動・自由研修)             3時30分出発 (時間厳守)

柿のはずしヤマトあすか店==(南阪名道・近畿道)==中国道・赤松PA==JR綾部駅
 4:40(休憩・買物)4:55    6:00(休憩)6:20 7:30頃到着予定