第11回秋の史跡学習会 み仏の街―古都・奈良 2号車 顧問 井根町 辻本不二男氏   綾部の文化財HPへ

華厳宗総本山・国宝大仏殿をバックに
宝珠院々長・本山勧学院々長佐保山堯春師と共に

 さわやかな秋晴れにめぐまれた11月17日、会員78名を乗せた2台のバスは、午前七時綾部駅を出発、み仏の街奈良へと向かった。目指すは古都奈良のシンボルとして、その双璧である東大寺と興福寺。

 近年は体調への不安から、参加を見合わせていたが、今回はこの素晴らしい企画にその懸念も吹っ飛び、喜んで参加した。
 あおによし奈良の都は咲く花の云々、と万葉集に歌われている奈良は、
○シルクロードの東端に位置して「大陸文化の窓」であった街
○仏教文化をはじめ、日本の政治の中心として千三百年の歴史が刻み込まれた街
○国宝や重要文化財が多くめいて、「文化財の宝庫」となっている街
等で人々を惹きつける大きな魅力をひめた街である。

 最初に訪れたのは華厳宗の大本山である東大寺、全国に仏教を広める大きな役割を果たした官立寺で大仏さんをはじめ28もの国宝や多くの重要文化財を有する大伽藍である。
 早速大仏さんに詣でて合掌、毎度のことながら世界最大の金銅仏(像高約15米、重さ380トン)の威容に圧倒された。
 副会長・宮本太資氏のお知り合いので寺内の宝珠院住職・本山勧学院々長の佐保山堯春師の御説明をうけ、特別の御取り計らいで基盤に登壇を許され、大仏さんの台座に触れながら、その周囲を廻り、更に詳しいお話が伺えたのは、まことに幸運であった。

 大仏殿は現存する木造建築物では世界でも最大級とされている。江戸中期の再建であるが、良材の確保に苦しみ、日向の国の山深くに在った松の巨木が、最も重要な本柱に選ばれ、漸く建立を可能にしたという。海路や河川は曳航されたが陸路の輸送は困難をきわめ、数千人で数カ月も要したと伝えているので、その柱はどれか興味をもって尋ねたが「一般の人には見えない処に立てられています。」とのことで、まことに残念であった。

 大仏の開眼供養は、日本に仏教が伝来後、奇しくも二百年後にあたり、仏教による国家鎮護と、発展した国力をアジア諸国に誇示する戦略で実現したものであった。使用された大量の銅は、長登(ながのぼり)銅山(現・山口県美東町)で発掘されたが、しい多くの人々が採掘夫として動員され、作業は困難をきわめ、過酷な労働から逃散する人が連日跡を絶たなかったと伝え、その後奈良の建設現場では全国から多くのボランテアが馳せ参じ、作業はいとも快調に進んだという。この明暗二ツの史実を思い浮べながら仰ぎ見た大仏さんは、そんな世俗を越えて超然とし、永遠におだやかできびしくもあるお顔であった。

 大仏殿前に据えられた金銅八角燈籠は、周囲の建造物が消失と再建をくりかえした中で、珍しく天平時代の代表的工芸として残された貴重ものであるが、足を止め関心を示す人が少なかったのは、いささか意外で惜しまれた。南大門の左右に屹立する巨きな阿吽の仁王像は、折悪しく日光の光線が暗くてよく拝見できず、期待外れで残念であった。

 次に訪れたのは奈良の中心街にある興福寺で法相宗の大本山である。奈良、平安時代にかけて日本の政治と文化の中心を占め、大いに権勢を振るった藤原氏の氏寺であった。その故にか26の国宝と多くの重要文化財が集中して、国内でも有数の仏教彫刻の宝庫となっている。境内に設置された国宝館にはそれらを展示して参詣者に便宜をはかっていた。

 その中でも一基わ目を惹くのは、天平彫刻の中でも永遠の名品とされている阿修羅像、百済の国から渡来した工人がもたらした脱活乾漆の製法と勝れた職人の業がこの逸品を生んだという。三ツの顔と六本の腕によって立つ姿は、「卓越した技術に支えられ、少年のような清純さと神秘性をあわせもっている」。との識者の解説を思い起こして素直に頷きながら、容易に立ち去り難かった。

 50米の高さでそびえる五重塔は、場所柄も良く実に堂々として古都奈良の象徴としての風格を備え、凛々しい佇まいであった。幕末から明治のはじめにかけて吹き荒れた廃仏毀釈の嵐によりこの塔も風呂屋の燃料として危うく取壊されそうになったという受難の話は有名であるが、天平時代の創建以来、消失、再建を5度も繰り返し、現在のものは室町時代の建築である事等は全く知らなかったが、今回はじめて学んだ。ともあれその外観は奈良の中心街と実によく調和しており、各号車毎の記念写真もその塔をバックに撮された。

 帰途についたバスの中は、酒や唄による乱れがまったくなく、今日一日の見聞を思い起こして温めるのに相応しい雰囲気に満ちていた。