秋の丹後半島一周 文化財・史蹟学習会   綾部の文化財へ

「綾部市文化協会後援」 第十回秋の文化財・史跡学習会 事務局 四方續夫
見学箇所の概略とコースのご紹介
 古代の丹後には強大な丹波王朝(丹後王朝)が実在していたと思慮されます。網野町の「網野銚子山古墳(国史跡)」は日本海側最大の前方後円墳で、全長一九八メートル、後円部経一一五メートル・高さ一六メートル、前方部幅八0メートル・高さ一0メートルで三段築成、葺石・埴輪列を持つ巨大な古墳である。

 古代大和政権との結びつきは「古事記」で言う丹波(丹後)の豪族、大県(おおあがた)(ぬし)()()()の女、丹波竹野媛(タニハノタカノヒメ)が開化天皇の妃となり、又「丹後(たんご)旧事記(くじき)」の伝承では丹後の河上之摩須郎(マスラメ)女が産んだ日葉酢媛(ヒハスヒメ)が垂仁天皇の皇后となっている。しかし、大和政権はその強大な力を削ぐため、「続日本紀」によると天武天皇十三年(六八五)には但馬を分国として独立させ、更に、元明天皇・和銅六年(七一三)夏の四月に、加佐・与佐・丹波(今の中郡)竹野・熊野の五郡を割いて丹後の国が、勅命によりつくられました。その頃は、天智天皇の「近江令」や文武天皇の「大宝律令」などの律令制度が整い、地方の行政機関の中に、全国を国・郡・里(五十戸を一里)に分け各々に国司・郡司・(さと)(おさ)の責任者を置いた。その頃京都府は三つの国に分かれて、すなわち、山城国(八郡七十九郷)、丹波国(六郡四十九郷)、そして丹後国は(前記の五郡三十四郷)であった。大和政権はやがて大国・吉備を収め、出雲国をも治めた。
 さて、丹後海人王朝はなぜか太陽崇拝と計測がさかんであった。天火(ホア(カリ)命の正式名は長くて、(あま)照彦(てらすひこ)火明櫛甕玉饒速(ほあかりくしみかたまのにぎはや)()命という。記紀にいうニニギノミコトの兄君にあたるのである。(資料・両丹地方史第72号奥丹後地方史研究会の金久余市氏の論文を参照願います。)天火明命を祖先とする、敗残の丹後海人一族は由良川を遡り、今の西丹波に新天地を求めた。 福知山市・綾部市・舞鶴市には天火明命を祀る多くの神社がある。例えば、綾部市於与岐町の「()(なる)神社・祭神・彦火々出命」天火明命の別名ホホデミノミコトを祀る。金河内町の阿須々(あすす)()神社は天火明命の祖神・天御中命他三柱である。福知山市戸田には立派な村の氏神の「浦嶋神社」がある。塩見の姓も「潮見(うしおみ)」から、芦田(葦田)・足立(安達)の姓もタタラ炉を踏むことで、葦痛=足見田=葦田(芦田)と転じたと言われている。又、足立は芦田姓の一族だとも言われている。
 その関係は非常に深く現代でも同じ京都府となっていますが、逆に丹波は明治維新後、京都府丹波と兵庫県丹波(氷上郡、多紀郡)に分割されてしまいました。

 見学コースですが、京都縦貫自動車道で宮津へ、そして国道312号線を通り岩滝町、野田川町、そして今年四月合併し京丹後市となった大宮町、峰山町を通り、「慶応四年(明治元年・一八六八)五月に久美浜縣庁が置かれ(丹後、但馬、丹波、播磨、美作(みまさか)五ヶ国の幕府領、二十三万石)を管轄した。」久美浜へ、小天橋を渡り久美浜湾を一周し、178号線の丹後半島の海側の道を通り網野町、丹後町、伊根町、宮津市、再び岩滝町、宮津市の「丹後半島一周コース」です。天候が良ければ丹後松島の絶景も楽しむことが出来ます。
 又、丹後木津では蟹シーズンならでの海産物の買い物も組み込みました。
 さて見学箇所ですが、数多くの見所があり、一泊二日で行きたいところですが、日帰りであり、五箇所に絞らせて頂きました。又、この時期の丹後半島の紅葉も、格別であります。

豪商 稲葉本家(久美浜)(平成十五年一月・国登録有形文化財)(見学時間は九時〜九時四十分)電話:0七七二ー八二ー二三五六

当家は平成十三年、十四代当主にあたる稲葉昭次氏から土地を買収、家財・文書を含む建物を提供頂き「豪商稲葉本家」として開館したものである。
 当家初代・喜兵衛は、「織田信長の家臣団、美濃三人衆の一人稲葉一鉄の分家の次男として生まれたが武田信玄に抗して敗れこの地に移り住んだ」と言われているが正確にはわからない。推測では約四百年前、美濃(みの)国(岐阜県)又は信濃(しなの)国(長野県)からこの地に住んだものと思われる。
 初代喜兵衛の代から家業は代々「糀屋(こうじや)(麹=こうじ、米、麦、大豆、糠などで酒、醤油等を作る。)で六代目から藩の御用達とともに沿岸交易により財を成した。七代(これより市郎右衛門を名乗る)
・八代から付近諸藩の金融を一手に引き受ける豪商となり、代々付近を買い取り現在の屋敷となったのは八代目市郎右衛門代の寛政六年(一七九四)である。
@主屋(国登録有形文化財)
 この住宅を建てたのは十二代市郎右衛門である。当家は長年火災等にあわなかった為不便となり、明治十年に今までの家屋を取り払い、明治十八年(一八八五)から五年の歳月をかけ新築されたものである。
 稲葉家住宅の規模は大きく、部材も(けやき)の柱を多用し、松材の太い榛を井桁状に組み上げて豪壮な木組みを示し、上質かつ堅牢な構造形式となっている。最大の見所は当家の家柄と経済力が象徴される土間と居間による一体的な吹き抜けの大空間構成である

A奥座敷「(ぎん)松舎(しょうしゃ)
 奥座敷は文政年間(一八一八〜一八二九)十代市郎右衛門の時建築され、浜別荘として当家北側にあったものを移築したといわれている。ここには、大名も泊まり、久美浜代官、県知事もしばし訪れ、慶応四年正月には山陰(さんいん)(どう)鎮撫(ちんぶ)総督(そうとく)西園寺(さいおんじ)(きん)(もち)の本陣ともなった由緒ある建物である。

B長屋門(ながやもん)(ひな)御門(ごもん)}(国登録有形文化財)
 平入桟瓦葺き切妻造りの二階建てで、
桁行九・四メートル、梁行三・九メートル(約二間)。屋根の両妻側には、格式的な外観要素として、但馬地方の伝統的な町家にある「()(だつ)」をあげている。表側の外観に変化を与えるため、二階部の表側に約一尺ほど迫り出しているのが特徴。

宝蔵(たからぐら)土蔵(どぞう)
 南宝蔵と北宝蔵は国登録有形文化財である。主屋から廊下で接続された宝蔵はよく保存されている。この蔵は宝蔵(tからぐら)とも呼ばれ、久美浜代官所の「金びつ」があったとされる。2階建てで廊下には畳が敷いてあり、その下の床板の一部を開けると銅の金びつ(今で言う金庫)があり、大部分は土中に埋められ、この金びつを護るため夜間2人の不寝番がついていたと言われている。他の3棟の土蔵も母屋と同時期に建築されたものと推測されるが、文化財登録されたものは主屋に続く蔵2棟である。
その他
 稲葉家と「ぼたもち」の歴史は古く、久美浜縣誕生を記念して地域の人々に「ぼたもち」をくばったとか。台所を改造した特産品コーナーではこの「ぼたもち」のみならず厳選された久美浜の特産品とちょっと小粋な小物がお薦めです。
出発は九時四十分で時間厳守でお願いします。

 バスは「久美浜代官陣屋と久美浜縣庁跡」、現在は久美浜小学校となっている前を通り、関西花の寺・第七番・如意寺へ向かいます。古い町並みの残る久美浜町内も良く見て下さい。
 尚、この小学校の西側背後の山が城山で、「久美浜城跡」、は室町時代から戦国時代末期までは丹後守護一色氏の家臣が小城を構えていたが、天正十年(一五八二)に細川氏の家臣松井康之が攻め取り、一万三千石を当たえられ築城した。その後、細川氏は豊前中津に移封によって廃城。 

 丹後は京極氏の所領と成ったが、寛文六年(一六六六)宮津京極氏は改易され、幕府領と大名領が入り交じるようになった。このため丹後における幕府領を支配するため代官所の陣屋がおかれた。代官所は当初は生野(いくの)代官所(兵庫県)の支配を受けた。その後、幾たびか管轄の代官所が変わったが、正徳元年(一七一一)以降は京都代官所支配となり、享保二十年(一七三五)に久美浜陣屋がつくられ明治維新まで続いた。現在小学校の前の川は陣屋川といい、南の住宅地の中に「陣屋清水」と呼ばれる井戸が残っている。

関西花の寺二十五ヶ所・第七番札所 宝珠山・日切不動尊 如意寺(にょいじ)(見学時間は住職の花説法を含めて約四十分)

(如意寺をバックに号車毎に記念写真を撮る予定です。ご協力ねがいます。)

如意寺縁起 天平(てんぴょう)年間(奈良時代・七二九〜七四九)行基菩薩が当地来訪のおり、山上より火がでて海に入り、また山に昇るのを見て、海士(あま)に頼んで網を入れたところ、過去七仏の如意宝珠の舎利塔を得た。そこで、ここに伽藍を建立したのが当山の開基。
 鎌倉時代には伏見天皇(一二七八〜一二八八)より勅額を賜るなど、以後、寺領五百石、塔頭(たっちう)十二坊を有し、真言密教の道場、又萬人帰依の中心として参拝者常に絶えず今日に至る。
 現在も初詣千日会、厄除などのご祈祷、また、年間約五百種の花が咲く「四季折々の花と花説法の寺」として知られる。
 境内はすぐ門前に久見浜湾が広がる景勝地で、周囲には温泉などもある。

ご本尊・十一面観世音菩薩(伝、行基作 眼守護の秘仏)
◆日切(ひぎり)不動尊(伝、弘法大師爪彫 厄除・所願成就)
◆阿弥陀如来座像(伝、恵心僧都作 木造(平安後期)
◆木像金剛力士像(鎌倉時代初期)
◆役行者座像(江戸時代)
◆不動堂(重層宝形造 我国唯一の様式)
◆伏見天皇勅額(京都府指定文化財)
◆銅尖塔(東京国立博物館にて保管)
◆閼伽(あか)井()の水(眼守護の霊水) 先に見学し、当寺の住職・友松祐也師より約二十分の「花説法・心の花が開くとき」を受けます。
(注)
十一月の花等は、まず紅葉、りんどう、大文字草、ツリフネソウ、ナナカマドの実、ガマズミの実などです。出発予定は十時三十分です。トイレを済ませ、バスに乗車願います。)
 又、綾部では唯一の関西花の寺第二番札所・綾部西国観音霊場第十四番で長井一禾(いちよう)の描いた四季三十六面の鴉絵があることから「丹波のカラス寺」として有名な高野山真言宗の「塩岳山・(りょう)厳寺(ごんじ)」(綾部市舘町)がある。平成十七年の秋号の「綾部の文化財シリーズ」で写真入りで詳しい内容を掲載する予定です。
 一名松江の浦といわれる久美浜湾は周囲二十八キロメートルの入り江です。これをぐるりと一周します。山頂に熊野神社があり、古代から神の山として崇められてきた「かぶと山」を遠望し、「小天橋」を渡ります。そこは「日間の松原」と言われ、「日本三景の天橋立」の松林の中をバスで走行しているかの様に感じられるでしょう。又、左手後方を遠望すると696メートルの高龍寺ヶ岳は町内最高峰。佐濃(さの)(たに)川下流から眺めると富士山のようなかたちに見えるところから「熊野富士」(熊野郡)とも呼ばれてきました。高龍寺ヶ岳の下流、川上谷には湯舟(ゆふね)(さか)2号墳」(府史跡)の円墳があり、昭和五六年(一九八一)の発掘で、この古墳から「金銅装双竜環頭太刀」をはじめとする四百数十点の石器時代の出土品があり、世間を驚かせました。
 川上谷川やその東の佐濃谷川の河岸丘陵地帯には多くの古墳群が分布しており、湯舟坂古墳は2基の円墳、天王(てんのう)(たに)古墳郡24基、ユリが(はな)古墳群17基、(くれ)(いし)古墳群20基など密集している。また、須田の集落の背後の山腹にある(もろ)(よし)神社延喜式内社に比定する説があり、崇神天皇時代の()(どう)将軍は、丹波に丹波(たんばの)(みち)主命(ぬしのみこと)が派遣され、その妃の父の川上摩須(かわかみのます)が創祀したという。まさに、古代には丹波王朝(丹後王朝)があったのではないか、と思慮されます。
 国道一七八号線を通り、網野町には入ります。ここでは関西人にとっては有名な「蟹と丹後木津温泉」があります。 私共も蟹シーズンならでの海産物のショッピングをしたいと思います。海産物店への立ち寄り予定は十一時十分〜二十五分を予定しております。気に入ったらさっさと買いましょう。 さらに網野町を抜け、鳴き砂で有名な「琴引浜」の横を通り、丹後町の間人(たいざ)へ入ります。ここでは、丹後七姫伝説@聖徳太子の母・(あな)穂部間人(ほべはしうど)皇后にふれてみます。穴穂部間人皇女の弟・穴穂部皇子は姉の夫・大兄皇子(のちの用明天皇)に反対し、物部氏を味方に付け、用明天皇を押す蘇我氏と争い、その難を避けるため天皇の領地・丹後の大浜の里(現在の間人)に(うまや)(どの)皇子(みこ)・のちの聖徳太子をつれて難をさけた。ちなみに、丹波・丹後地方では大江山の鬼退治など第3皇子・異母弟の麻呂子(まろこ)親王が有名です。皇后達は里人の心温まるもてなしを受け、感謝の意を込めた歌を詠み、この地に間人(はしうど)の名を与えた。村人は皇后が退座された折りに、「間人(たいざ)」と呼ぶようになったという。
 この丹後町には由良川に次ぐ近畿北部第二の大河・竹野川を中心に古墳群が密集している。産土山(うぶすなやま)古墳(こふん)(国史跡)は径50メートル・高さ9メートルの円墳で(ふき)(いし)埴輪列(はにわれつ)をもつ。(綾部の私市(きさいち)円山古墳とよく似ている。)四獣形鏡・素環頭刀子・玉類など多くの副葬品がでている。
 神明山(しんめいやま)古墳(こふん)(国史跡)は全長190メートルの前方後円墳で、後円部径140メートル・高さ23メートル、前方部85メートル・高さ15メートル。三段築成で葺石・埴輪列をもつ。竹野川下流一帯には、古墳群や古代遺跡が多く分布し、大成(おおなる)古墳群13基の円墳、(がん)興寺(こうじ)古墳郡方墳9基、円墳1基などがある。さらに古代の里資料館の東側には竹野神社(祭神・(あま)(てらす)大神(おおみのかみ)があり、延喜式内社に比定され、(前記コース概略で述べたように)社伝に依れば開化天皇の妃・竹野媛が竹野に帰り、天照大神を祀ったのに始まるという。境内には竹野媛を祀る齋宮神社がある。又、用明天皇第3皇子で聖徳太子の異母弟・麻呂子親王を合祀しているという。麻呂子親王が鬼退治をした時、逃れた鬼を追ってこの地で討ち取ったという。鬼の墓と伝える鬼神塚が神社のちかくにある。

 丹後伝説七姫ものがたりの、以下の六人は次のとうりです。
A小野小町(大宮町五十(いか)河())
 平安時代の六歌仙の一人として百人一首などで良く知られ、絶世の美女であった。四位深草少将の猛烈な求愛に疲れはて、この地に隠れ住んだという。小町の墓は小町開基と伝えられる地元の妙性寺にある。
B乙姫(伊根町・浦嶋神社) 浦嶋神社は午後に見学するので、其の項をご参照ください。
C静御前(網野町・静神社) 源義経の側室。義経が兄・頼朝と不仲になり、京を脱出。義経の死後、故郷の網野町へ帰り、二〇余年の短い人生の幕を閉じた。網野町磯には静御前を祀った静神社がある。
D羽衣天女(峰山町磯砂山・乙女神社) 峰山町には二つの羽衣伝説がある。一つは「丹後風土記」にある日本最古の伝説。もう一つは羽衣を隠した狩人・三右衛門(さんねもん)と結ばれた天女が3人の娘をもうけたが、再び天上へ戻っていったという七夕伝説。その三女を祀った乙女神社に参拝すると、美しい女の子が授かるという。
E細川ガラシャ(弥栄町・味土(みど)野()) 戦国時代、明智光秀の娘・玉子(たまこ)は丹後城主・細川忠興に嫁いだが本能寺の変により弥栄町味土野に幽閉された折り、侍女からキリスト教の話を聞き、洗礼を受けて「ガラシャ」の名を授かった。「細川忠興夫人隠棲地(いんせいち)」の札が立っている。
F安寿姫(舞鶴下東・宮津市由良) 森鴎外の小説「山椒太夫」であまりにも有名に成った安寿と厨子王だが、その実名は「三莊太夫」(大川庄・神崎庄・由良庄)を治めた太夫であろう。潮汲み浜も由良の西岸に残っているし、「鴎外記念文学碑」も由良浜の公園にある。そのほか、由良には「山椒太夫屋敷跡」「首引きの松」等もある。

昼食は丹後半島・間人(たいざ)港・宿坊  魚火温泉(いさり)火亭(びてい)」です。(十二時〜十二時四十分を予定)

電話:0七七二ー七五ー一九五0 当館は「四季を通じて、海の幸の楽しめる味の宿」と自負しております。会場は和室の「大広間」「小広間」に分かれますが、周囲一キロにも及ぶ、全国でも屈指の一枚岩の「立岩」等の海岸や間人港の風景楽しみ頂けます。出発は十二時四十分です。トイレを済ませバスにご乗車ねがいます。 ここから、再び国道178号線の海岸側を南下していきます。 まもなく、左手海の中に、断崖の横にそそり立つ高さ13メートル・岩の上に松の木が一本、まさに奇観「屏風岩」です。引き続き、海岸側の道をいくと、経ヶ岬を一望できる景勝地で、その眺めが日本三景の松島に似ていることから「丹後松島」の名がついた景勝地をいきます。 丹後半島北端に突きだした経ヶ岬から(しら)南風(ばえ)トンネルを抜けると、あっと息をのむような海岸美の風景が展開する。それが断崖絶壁の蒲谷(かまや)海岸である。そして伊根町にはいります。伊根の地名語源は難解であり、垂仁天皇の皇子・稲別命がこの地方を領有していたので、命の名に因んで稲=伊根といった伝説がある。綾部の口上林に井根町がある。由良川に注ぐ上林川の中流である。この井根は井堰きの別名で、川を堰き止めて田畑に水を引く場所をさす。しかもその井根は稲にも通ずる。

浦嶋神社(宇良神社・伊根町本庄浜)(見学時間午後一時三十分〜二時十分)(浦嶋神社をバックに号車毎に記念写真を撮ります。ご協力願います。)
先ず、日本人の誰もが知っている浦島伝説で名高い「浦嶋神社」参拝します。「日本書記」に雄略天皇の御代、水の江の浦嶋子、仙亀にひかれて海神の都にわたり・・・・・云々」とあり、当時の丹後の名族であった浦嶋一族の業績をたたえて創られたという。
 祭神は時代によって違っていたが、現在は浦嶋子、相殿神を
月読(つきよみ)命・はらえ)()大神とし、延喜式内社に比定され、33年毎に式年造営の制度があったという。現在の建物は、明治十七年(一八八四)に再建された。本殿は切妻造・茅葺(かやぶき)で、直線的な構成である。拝殿は中央を通路とした割拝殿である。境内には「蓬山(とこよ)の庭」(その他、神山・仙都と書いて「とこよ」とよませている。)又、万葉集では「常世」を「とこよ」としている。これは古代中国の神仙思想を強く受けたものである。その他「力石の事」が書いてあり重さ三十二貫(一二0s)の石を担いだ力持ちの話である。

宝物館(今回私共のため特別開館)社宝には「紙本著色浦嶋明神縁起絵巻」国重文・室町期のもの)、「白練(しろねり)緯地(たてじ)(きり)(さくら)土筆(つくし)(かた)(すそ)文様(もんよう)刺繍(ししゅう)小袖(こそで)(国重文・桃山期のもの)、のほか浦嶋太郎が持ち帰った玉手箱の2代目と称する花菱(はなびし)亀甲(きっこう)蒔絵(まきえ)手箱(てばこ)(室町時代のもの)能面32面(江戸時代のもの)など多くの文化財がある。
(その他、今回の会報には書ききれ真宣ませんので、参加の方は当日お渡しする、別添の「第十回文化財・史跡学習会」資料を参照して下さい。) 引き続き178号線の海岸側を南下しますが、伊根町役場までは山中を通ります。ここには、井根湾を見下ろす高台にある道の駅「船宿の里公園」がり、ここからの眺望は山裾に広がる舟屋郡と波の穏やかな伊根湾を一望出来ますが、私共は時間の都合で割愛します。 私共は伊根町役場の前からゆっくりバスを走らせますので、「伊根の船宿」や井根湾に浮かぶ「青島」や「亀島」をご覧下さい。「青島」はは古来より樹木の伐採が許されていない聖なる島。島には海の守護神を祭る「蛭子神社」や「鯨の墓」があります。又、北方4キロの新井崎(にいざき)は今から二、二00年前、中国を始めて統一した「秦の始皇帝」が方士・徐福を派遣し「不老不死」の仙薬を求め、童男童女三千人、五穀の種子、百工を与え東海に船出させました。しかし、徐福はついに帰らず、そこに止まり王になったと司馬遷の史記は伝えています。徐福到来の伝説は各地にありますが、新井崎もその一つで、仙薬は「九節の(しょうぶ)」と「黒茎の(よもぎ)」であったという。 ここから、国道178号線は南西に向かい、大島トンネル、岩ヶ鼻トンネルを抜けると「()()の海岸」に至ります。 平安末期、和泉式部が夫の丹後国司・藤原保昌と朝妻の狩倉で鹿狩りをしての帰り路、この辺を船で通った時に詠んだ歌であろうか。 花波(はななみ)の里とし聞かば住み憂きに君引きわたす天の橋立とあるが、その当時は花波の里とよんでおり、ハナナミがハナミとなり、波見となったのであろう。 

お伊勢さまのふるさと・丹後一宮  元伊勢(もといせ)(この)神社(じんじゃ)(参拝見学時間は三時十分〜三時五十分を予定しています。)籠神社をバックに号車毎に記念写真を撮りますので、ご協力願います。)

本宮 籠神社 主神ー(ひこ)()(あかり)(のみこと)
相殿ー豊受大神・天照大神・海神・水分(みくまり)
末社ー恵美須(えびす)社・天照大神和魂(にぎみたま)
春日大明神・猿田彦神社

真名井稲荷社
 延喜式社格 名神大・月次新嘗・案上之官幣 山陰道一之大社

御由緒 神代と呼ばれる遠くはるかな昔から奥宮真名井原に豊受大神がお祭りされて来ましたが、その御縁故によって人皇十代・崇神天皇の御代に天照皇大神が大和国笠縫邑からおうつりになり、之を與謝宮(よさのみや)(吉佐宮)と申して、豊受大神と一緒にお祭りされた。その後天照皇大神は十一代・垂仁天皇の御代に、又豊受大神は二十一代・雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢におうつられた。それに依って当社は元伊勢と云われています。 両大神が伊勢にお遷りのあと、天孫・彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮(このみや)と改め、元伊勢の社として、又、丹後の国の一之宮として朝野の崇敬を集めて来ました。

社殿 社殿の様式は伊勢神宮と同じ唯一の神明造りで、(しん)御柱(のみはしら)や棟持柱があり、特に高欄上の五色(青・黄・赤・白・黒)の(すえ)(たま)は伊勢神宮御正殿と当宮以外には拝されないもので、神社建築として最古の様式と高い格式を表しています。 先ず、参拝される社殿は内宮様式の本宮で、千木(ちぎ)は内そぎで一番奥の本殿の(かつ)()()は十本であります。

御神徳 家内安全・商売繁昌・縁結び・安産・願成就・交通安全・厄除・水源水道守護

宝物 籠名(このみょう)神社(じんしゃ)祝部(はふり)海部直等(あまべのあたえら)()(うじ)系図(けいず)(国宝)
 海部宮司家伝世息津(おきつ)(かがみ)(直径175o(学名:内行花文長宣子八葉鏡・後漢 時代・約1950年前のもの)海部宮司家伝世邊津(へつ)鏡(直径95o (学名:内行花文昭明鏡・前漢時代・約2050年前のもの)
 藤原佐理卿筆額面(国重文)
 石造狛犬(こまいぬ)2頭(国重文)(この狛犬は日本様式化された狛犬の  傑作と云われ、他社の狛犬の形と全  く違い、頭は小さく胴体と足は大きく、どっしりと安定しており、しかもその姿勢は静と動を同時に表現している。その昔、作者の魂が狛犬にこもり、石の狛犬が天橋立に暴れ出て通行の人を驚かせたが、たまたま仇討ちに来ていた豪傑・岩見重太郎が一夜待ち伏せし、剛刀で狛犬の足を切ったところ、それ以来社に還り、魔除けの狛犬と云われ、霊験があらたかになったと伝えられている。)
銅製経筒(重文)、小野道風筆額面など 又、画僧・雪舟(一四二0〜一五0六?室町時代、中国「(みん)」で水墨画を修行)は秀れた作品を数多く残しているが、晩年八十余歳の時、当地に来遊し、当時丹後の国府や国分寺の塔があったこの地を、当神社を中心として雄渾(ゆうこん)に描いた国宝「天橋立図」は当時の海部家の当主に献じ、同家は代々大事にして伝えていたが江戸時代末期、やむなき事情により手を離れるに至った。現在この絵は国宝として京都国立博物館が保管している。注)次に訪れる「京都府立丹後郷土資料館」の一階奥に五分の二の模写があり、所謂(いわゆる)、幻の「国分寺と塔」描かれているので是非ご覧下さい。

元伊勢と海部(あまべ)宮司家
 
全国には元伊勢と称する所が数箇所ありますが、(綾部市の近くでは大江町に元伊勢さんの内宮・外宮・奥宮があります。)内宮(天照皇大神)と外宮(豊受大神)との両宮の元宮であり、且つ之に仕える宮司家が神社の始まり(神代ー二五00年ほど前)以来連綿として血脈一系で奉仕し、裏付けとなる神宝、古文書、口伝等を有するのが特徴であります。 古代では格別の由緒ある神社にお祭りする神と、之に奉仕する世襲の(しし)(しょく)(神主)の家は不離一体の関係でありました。 元伊勢である籠宮(このみや)(古称()佐宮(さのみや))に奉仕する祀職は古来海部(あまべ)(のあたい)と呼ばれ、丹波国造(こくぞう)(くにのみやつこ)としての伝統を持ち、現当主は八十二代目にあたります。この海部宮司家が所蔵する通称「海部氏系図」は平安時代初期の書写で、現存する日本最古の系図として昭和五十一年に国宝に指定されました。 尚、八十二代目宮司・海部光彦様にお会い出来るかも?
 
 例祭 例祭は四月二十四日(昔は四月二の午の日)で(あおい)(まつり)(藤祭)と呼ばれ平安朝以来の古式豊かな太刀振り神事が奉納されます。

千古のたたずまいを見せる奥宮  ()名井(ない)神社と「天の真名井の御神水」今回は時間が有りませんので、参拝はしませんが、古代丹波の最高神である豊受大神(天御中主神、又は國常立尊とも云う)を氏神として戴いて当地方に天降られた天照國彦火明命は、大神様をお祭りするふさわしい神聖な地として天橋立の北端の真名井原に御鎮座された。又、機会がありましたら、是非ご参拝下さい。誠に神霊を感じさせられる所であります。

「丹後国営農地開発事業終了・重要文化財指定記念・秋期特別展をみる。」京都府立丹後郷土資料館(午後四時から五時の一時間を予定しています。)

(資料館をバックに記念写真を撮りますので、ご協力願います。今年五月、着任された新館長・西岡喜与一館長も特別な用事の無い限り一緒に加わって頂く予定です。)
1階常設展示 丹後の歴史と文化(縄文時代)(弥生時代)(古墳時代)(歴史時代)

歴史展示(籠之大明神扁額・国重文、天橋義塾等)
民俗展示(丹後の漁業、丹後の回船業、丹後の織物等)
「人と技術ー見えてきた古代丹後ー」の主題での特別展示を2階で見ます。 丹後国営農地開発事業に伴う発掘調査は昭和六十年に行われた弥栄町スクモ塚古墳群を皮切りに、一一0を越える遺跡で行われました。中でも奈具岡遺跡や遠處遺跡といった生産遺跡の発掘では、これまでわからなかった古代の手工業生産の有り様が明らかとなりました。また数多く発掘調査された古墳の副葬品からも、当時の技術を伺い知ることができます。 今回の展示では、こうした古代の丹後に生きた人々の生活の様子とそれを支えた技術とを紹介します。
 奈具岡遺跡で出土した玉作りの道具と原石(弥生時代中期)が国の重要文化財に指定されました。 

外部の展示物見学
一、旧永島家住宅(この住宅は竹野郡丹後町徳光に建てられていたもので、天保十年(一八三九)と大黒柱に墨書きで書かれていました。ここに移築し、復原整備されました。)
二、丹後国分寺跡(希望者は草原の中へ歩いていくと残った基礎石が見れますが、ズック靴又は長靴が必要です。)

第十回秋の文化財・史跡学習会のご参加案内 今回の学習会は「京都府立丹後郷土資料館・秋期特別展をみる「人と技術ー見えてきた古代丹後ー」を中心に丹後半島一周の見学を、今年年四月六町が合併し出来た京丹後市の久美浜町から海岸線側を走り、丹後半島の古代のロマンと紅葉をも楽しんで頂くコースで計画しました。ご夫婦でご友人・知人をお誘いの上、ご参加頂きますようご案内申し上げます。出発は朝七時十五分で帰着は午後六時頃を予定しております。
一、期日 平成十六年十一月十六日(火)
二,集合場所・時間 JR綾部駅北口 午前七時(時間厳守)(お車でお越しの方は北口西側の市営有料駐車場をご利用願います。)
三、見学箇所
1、豪商・稲葉本家(平成十五年国登録有形文化財指定・久美浜町)
2,関西花の寺・第七番札所・日切不動尊・如意寺(にょいじ)(久美浜町)
3,浦嶋神社と宝物館(伊根町)
4,丹後一宮・元伊勢・(この)神社(宮津市)
5,「重要文化財指定記念・秋期特別展」京都府立丹後郷土資料館(宮津市)
四、参加費用 お一人八千円(昼食代、別紙掲載の各寺院等の拝  観料、入場料、手作り記念写真2枚を含みます。)、募集人員 九十名(京都交通バス2台を予定)(但し、申し込み超過の場合はお断りしなければなりませんので、お早めに申し込み下さい。)
六、申込方法 十月二十九日(金)までに参加者全員の氏名・住所・電話番号を明記し、葉書にて申し込み下さい。(尚、電話での申し込みはお断りします。)
七、申込先 〒番号:六二三ー000四 綾部市多田町後路二八番地 四方續夫(つぐお)
八、受付と出発案内等は、申し込み受付後、葉書にてお知らせ致します。
(注)学習会にはこの「綾部の文化財を守る会」会報第五十九号を持参して頂くようお願い申し上げます。

行程表

綾部駅北口  ==綾部IC==京都縦貫道=由良PA==宮津IC==峰山=国道312=午前7:15出発(時間厳守)(休憩) 豪商稲葉本家(見学)==久美浜小学校(車中)== 如意寺(拝観等)===小天橋(車中)

09:00〜09:40 (元久美浜代官陣屋・県庁跡)09:50〜10:30

=国道178号線= 丹後木津(海産物買物)===網野== 丹後町==いさりび亭(昼食)= 
     11:10〜11:25             12:00〜12:50

==浦嶋神社・宝物館(見学)=経ヶ岬=丹後松島==蒲谷海岸=井根「舟屋」(車中)===
 13:30〜14:10

=  一宮・籠神社(参拝)==京都府立丹後郷土資料館と旧永島家住宅(見学)==宮津IC==
 15:10〜15:50    16:00 〜 17:00出発(時間厳守)

京都縦貫道== 綾部駅北口
 18:00頃到着予定