十二回秋の文化財・史跡学習会              HP:綾部の文化財へ
―高台寺(北の政所(まんどころ)・ねねの寺)四百年祭と太閤秀吉ゆかりの地を訪ねてー 一号車 副会長・位田町 村上高一

国宝・豊国神社唐門 1号車

 晩秋の好天に恵まれた11月16日、標記の研修旅行に参加した。わが一号車は、始発を物部町にしてもらったことから、物部の方が多く、総勢38名で定刻に綾部駅を出発しほぼ2時間で、京都東山七条の豊国神社に到着した。すでに本日の京都スカイ観光ガイド協会所属ガイドの(れん)()さんが来ておられてご挨拶をうけた。非常に珍しいよいお名前で、これで度々得をしたとのご本人の説明であった。蓮花さんは、マイクを使われずしっかりした力強いお声で、分かり易く説明されて、好感がもてた。

 豊国神社は、秀吉の墓所のある阿弥陀ヶ峯(東山連峰の一つ)の山腹、太閤
(だいら)
に建てられた雄大な社殿であったが、豊臣氏の滅亡後、徳川氏の手で、完全に破壊された。ずっと後になって明治十三(1880)年に、旧方広寺大仏殿跡地に再興されたものである。ここでは宝物館と唐門(からもん)を説明を受けながら見学した。宝物館の圧巻は「豊国祭礼図屏風」であり、当時の神社の規模、祭礼の盛大さがうかがわれた。唐門は伏見城の遺構で威容を誇っている。次に方向寺を見学する。方広寺は秀吉によって天正十四(1586)年に建てられ、当時の本尊の木造大仏は、奈良の大仏より高かったといわれるが、度々の災禍で破壊された。現在は豊臣、徳川決戦の引金と伝えられる「国家安康、君臣豊楽」の銘が入った巨大な梵鐘と本堂のほんの一部の大黒天堂を残すのみである。
 11時頃から再びバスにて高台寺へ向う。大型バスの進行方向の関係で迂回して、約20分を要し、高台寺に到着した。そこで同寺駐車場内の「洗心寮」にて昼食となる。昼食は
湯葉(ユバ)を使った京料理をいただいた。その後しばらく買物や付近の散策を楽しんだ。

 午後1時少し前に高台寺庫裏前で記念撮影をした。その後方丈にて圓徳院住職の後藤典生師の法話「秀吉とねね、そして仏心」を聞く。後藤師は約40分間、熱意を込め、具体例を挙げて分かり易く話された。私には、秀吉が低い身分から遂に天下を取ったのは、彼が人の心、立場を理解してその心を掴んだからだ、また仏教の心として、太鼓の音のように、当たり前のこと(普通のこと)が幸せにつながると話されたことが、強く印象に残った。

 ここで高台寺と圓徳院について、ごく簡単にその起源を記す。豊臣秀吉の没後、夫人の北政所(ねね)は慶長八(1603)年「高台院」の号を勅賜されたのを機縁に秀吉の菩提を弔うため寺院の建立を発願し、慶長十(1606)年、開創した寺が高台寺である。寛永元(1624)年、建仁寺の三江和尚を開山として迎え、高台寺と号した。北政所はこの年に没し、19年の余生を圓徳院でおくられたことになる。

 法話の後、境内の開山堂、庭園(()(りゅう)()(えん)(げつ)()を含む)、観月台、霊屋(おたまや)(秀吉、北政所の木像安置)、傘亭、時雨亭という茶室を見学。その途中で、当会の参加者にお抹茶の接待をうける。大変おいしいお茶であった。その後、階段を下りて圓徳院を見学。諸説明の後、方丈の内外を見学して回る。内には戦国武将の書翰(しょかん)絢爛(けんらん)豪華(ごうか)な襖絵が置かれていた。外は庭園が注目された。中でも北庭は伏見城化粧御殿の前庭を移したもので、桃山期の代表的庭園といわれる。
 次いで、圓徳院の隣の二階にある
(しょう)(てのひらのような)美術館を見る。ここには北政所の生活を彩った様々な蒔絵の調度品や絵画その他の美術工芸品が残されていた。特に蒔絵は、高台寺蒔絵として知られ、漆、金粉を平滑(へいかつ)に蒔く平蒔絵として作られているとのことである。以上のようにして、高台寺では実に食事も含めて、約四時間の滞在で、多くの見学や経験或いは散策となった。かくして午後3時半過ぎに、ガイドさんをはじめ、同寺に別れを告げて帰途についた。多くの人々に囲まれ、多くの文化財に接して、かなり疲労を感じたが、大変中味の濃い、よい研修であった。午後6時頃、全員無事に帰りついた。