「播磨の国の国宝と文化財を訪ねて」一号車 事務局会計 綾中町 渡邊敬治  HP:綾部の文化財

鶴林寺の国宝・本堂をバックに
ご住職・幹栄盛師と共に

 バスから降りてお寺を見上げると、お堂らしき建物が見える。小さな坂道を登って行くと目の前に金堂が聳える。奈良の大仏殿程ではないが、かなり大きな建物である。その前でバスガイドを含めて八十四名一度に写真撮影をする。

 八百十五年も風雪に耐えて、今も堂々とした姿を見せる浄土堂、中に入ると中央円形の須弥壇の上に立つ阿弥陀三尊像は見上げるばかり、五米三十糎もあるという。小さく見える両脇侍の観音・勢至の両菩薩も三米七十一糎とか。

 本尊の胎内銘から「建久六年四月十五日」とあることから八百十二年も以前に造られたことになる。この阿弥陀三尊は東大寺南大門の金剛力士像を造った名仏師快慶の作とか。その力強さは共通する技法を窺わせる。天井を見上げると八百年以上も経た建物とは思えないしっかりした木組みで偉大である。大仏様(天竺様とも云う)という特異な建物で、東大寺南大門と我が国に二つしかないという重要な建物である。

 仏像の背面(西)の透蔀を通して差し込む夕日が浄土堂の化粧天井に反射するのを背景に黄金色に輝くこの像を拝む時、雲に乗って来迎する仏の姿を目のあたりにして、拝観者は感動するという。残念ながら私達は午前中の拝観なのでその姿を拝することは出来なかった。

 境内には薬師堂があり、東大寺に手向山八幡宮があるように、同寺にも八幡神社が祀られていた。見るものは沢山あったが時間の都合で見学もそこそこに浄土寺を後にした。

 法華山一乗寺は山の中にある。細いくねくねと回りくねった道をバスは一杯になって登っていく。

 一乗寺は印度僧法道仙人の開基である。

大化五年、時の帝孝徳天皇不予の病に患り、仙人が召されて一七日間加持し奉るとたちまち平癒し給う。此の年に本堂建立の勅を受けて建立したという。実に一三五七年も続くお寺である。

 バスを降りると本堂に向かって石段が続く、迂回路を通って本堂下の三重の塔までたどり着く、本堂は今まだ修理中なので拝観できない。国宝の三重の塔だけを拝して石段を降りる。本堂裏から二百米ばかり奥に開山堂がありそこには、賽の河原があるという。賽の河原まで登れない人は麓の石の観音堂の屋根に小石を積んで賽の河原の供養代りにするという。

 「一乗寺には沢山の宝物もあり、仏像もある」とガイドさんの説明だったが、本堂が改築中でもあり、十分に拝することは出来なかった。

 昼食をはさんで午後は鶴林寺の拝観である。住職様が本堂でお待ちいただき一緒に記念撮影に納まっていただく。

 本堂に入って住職様のお話を聞く。

昔、加古川から舞鶴まで歩かれた時、調度綾部で夜になり、昔の綾部駅で一夜を明かしたことなどを交えながら、本堂は天竺様(大仏様ともいう)、和様、禅宗様が見事に調和して折衷様式の代表的な建物である。本尊の薬師如来・月光・日光菩薩・毘沙門・持国天の五体仏は厨子深くに鎮まる秘仏であり六十年に一度のご開帳という。本堂の住職であっても拝むことは許されない。

「あいたた」どうして、昔、鶴林寺に盗賊が入り、この聖観音像を持ち去り、壊そうとして、槌を腰の辺りに打ち付けた  

所「あいたた」と声がした。驚いた賊は改心して観音様を元の所に戻したという。

 それ以来この観音様を「あいたた観音」と呼ぶようになったとか。いまにもこぼれ落ちそうな微笑みを浮かべ、のびやかな肢体は腰をかすかにひねっているかに見える。しなやかな腰の線は女性のようにさえ見れる。まさに鶴林寺の至宝である。

ほかに太子堂は宝珠をいただいた桧皮葺きの優美な姿を見せる。太子堂に入り壁画の「九品来迎図」「還り来迎図」などのビデオを見ながら解説を聞く。

 鐘楼も立派で袴腰造りの優美な建築であり、釣るされた梵鐘は小振りながら朝鮮高麗時代の鐘で、鐘の上部に煙突様の筒がつけられている。これは鐘の響鳴に関係するのか、妙なる音色は天下一品という。

 宝物館の内には野外の舞楽演奏に用いられた楽太鼓の縁と太鼓の断片が残されていた。この楽太鼓の縁だけでもニ米からもある大きな物だった。昔はこんなに大きな楽器を使って舞楽を奉納したのだなと感心する。

 ここでも時間に追われて十分な見学はできないままに次ぎの見学場所に向かう。
明石文化博物館の見学は、十分な時間がとれないままに、慌ただしく見学をして博物館を後にした。