会報10号 昭和50年6月10日 正光神社 毎国庵 熊野神社 あやべの文化財 綾部の文化財を守る会のHPへ
西原遺跡について 山家・西原町 木下 禮次 氏
綾部市西原町の遺跡が注目されるようになったのは、瓦窯址が発見されてからである。綾部高等学校職員の西村さんや更科の富田さんが、西原西方
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| 釈丈ケ嶽 |
の釈丈ケ嶽の崖下で、須恵器を発見きれてからである。市史編纂室にもちこまれた遺物をみて、ただちに市教委社会教育課の配慮が要請され、丹後資料館の杉原和雄技師の調査が行なわれた。結果として六基の瓦窯址であり、平安中期のものであるという。その後ももちこまれた遺物はいずれも瓦の残片であり瓦窯の壁の一部分である。3月29日に行むわれた文化財審議委員会で委員の調査を行むうこととなった。以下その視察報告である。
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| 崖下に六基並ぶ窯址 |
西原町の西方から西原にのぼる坂道が国道から左にわかれている。釣3百米の坂をのぼると左の崖に瓦窯址がある。谷底を流れる小川のすぐ上に、昇り窯があり、崖の赤土の中に焼土や陶器の破片が散在している。平安中期のごく短い期間のものであるということは、かかる瓦窯址創設の意図を推察することが容易である。おそらく当時瓦を用いたのは、寺か役所であって、この時期かかる施設の建造にあたって、多量の瓦が必要であったからであろう。
西原町には先年発見された陶窯址がある。井上益一氏が、かって山家小学校在勤中に発見されたものである。場所はユキオレというところで、西原の氏神正光神社の西方の山の傾斜部面の中腹で松林の上にある広葉樹林の中にある。井上氏の案内で現地に到着してみると陶滓が発見され、多数の須恵器の破片をひらうことができた。いずれも須恵器で、つぼ・はさふ・高杯などの破片である。おそらく7〜8世紀のものであろうという。釈丈ケ嶽からユキオレにかけていずれも山の斜面に窯址が、ある時期多数存在していたもので、おそらく中筋の菅あたりと共に、当地方の陶器の生産地であったのであろう。
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| 札の前 古墳 |
西原には著名な古墳が多い。札の前・申西などの古墳がある。現石封土が崩れて外形が不明である為、古墳の形式はわからないが、申西の石室は全く雄大で、蘇我馬子の墓といわれる石舞台に匹敵する程のものである。
| 申酉古墳 |
山家には巨大な岩石信仰と思われるものが多い。広瀬の伊也神社・西原の熊野紳社・正光神社など巨巌をもっている。大塚といわれる熊野神社の巨巌は、全く巨大で背景の山峰との調和は見事なものである。おそらく自然を神としておそれた時代の祭祀遺跡であろう。大塚の近くで高校生の採取した石造物はプレ縄文でないかという識者の見解もきいている。
由良川の河岸段丘地に展開した西原が農耕地として、水田耕作に往時苦労したことはよくきくところである。しかして原始・古代の遺跡が多いということは、かつての西原の歴史上の位置づけを明らかにするもので、郷土の歴史の解明を大きく前進させるものである。
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| 熊野神社(大塚)の巨巌:西原町 | 伊也神社の盤座(いわざ):廣瀬町 |
布目瓦と土器 西村会員提供の資料より西原町柳迫かま跡より 右かま跡は、平安時代中期のもの。土器(大部分は須恵器)と瓦を焼いたかま跡は珍しく、夜久野とここの二ヶ所といわれる。 府丹後資料館の杉原和雄氏によれば、六基の登りがま(長さ6米、間隔5米)の四番目のカマの灰原(こわれたものの捨て場)より出土。 写真右:出土した土器 瓦片(西村会員提供) |