会報第3号 昭和46年2月10日 綾部の文化財を守る会のHPへ
物部地域の古墳より古代史をうかがう 岩田 実氏
現在までに判明している当地域の古墳の分布は、先ず須波岐の奥地に散在する。
@石塚古墳(俗称スワンダ:小字船迫の内、現20基の円墳を持つ横穴石室墳が遺存するが、破壊消滅が約10基程加わって30基内外であった。刀剣、須恵器を出土)
A知坂古墳(早間池東部、径11.5米、高さ2.2米の円墳6基)
B二子山古墳(早間池北側の山頂、径10米、高さ1.5米の円墳)
C多和田古墳(早間池東南5百米:円墳5基)
D五反田古墳(白道路五反田、物部ー梅迫線の北部台地:円墳9基)
E白道路古墳(白道路町狭間:円墳2基)
にわとり塚(狭門:前方後円墳 円部破壊)
F東野古墳(天野台地奥:径10米、高さ2米の円墳2基)
上市より西坂へかけての分布
G大熊座古墳(物部町大熊座:円墳2基)
H浄土寺古墳(西坂町浄土寺集落南麓:円墳4基)
I西坂古墳(浄土寺集落西北方:円墳2基)
J竹之内古墳(西坂町竹之内墓地:横穴石室墳5基)
他にK奥石隈に石室古墳1基、但し、何鹿郡誌によれば「其の数7、8基、室の入口は南に開口し、大なるものは17、8名入るるに足る」とある。
関連のあるものに、唐部古墳に入れている今田町竹ケ谷(唐部池をすぎて、村境の東側の雑木林の中)の石室古墳4基がある。
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| 物部B地区(1)(2) 綾部市遺跡地図より | |
以上が分布の主なものであるが、これをもとにして考えてみると、以上の景観は、後期群集墳の中でも横穴石室期前後という特色を顕著にしている。したがって物部地域の古墳の始まりは、豊里地域よりも約百年程遅れて、横穴石室期である。実年代にしてそれはいつ頃だろうか。
それをとく手がかりは現在まで不明である。なぜなら、石室が破壊され、須恵器の散逸してしまっていることによる。埋蔵文化財の保護の説かれるゆえんでもある。あえて推定するなら、六世紀後半頃より七世紀にかけてであり、中心は七世紀前半にあるのではないか。
しかも、豊里三宅地域がすでにこれにさかのぽること百年程以前、細流、湧水地を中心として水田を開いていったのと同じ過程が、再ぴくり返されていることが推定される。この頃になってもまだ犀川の濯漑利用さえもなし得ないで、石隈の山間、須波岐谷の奥地の沼や渓流、白道路から東物部で犀川に流入する細流等を利用して、水田を開発していることが、これらの分布から推定される。
更に上市より西坂に至る分布にも同じ状態が考えられるであろう。そうした中で最も注目したいことは、
@石険の既に消滅した石室古墳の規模の大きいこと、これは、勢力の大きさに関係があるだろうこと。
A石塚約20、知坂6、田和田5にかけての分布が、最も個数に於て多いこと。これはすぐその付近に集落の営なまれたであろうことを推定する時、古墳の数は、戸数の多さに比例する。西坂地域の古墳数と比較すると面白い。
B白道路入口の五反田狭門地域は、更に精査されなければなるまい。特に前方後円墳の含まれていること、水田の低平さを考慮して更に精査し、古墳の分布をたしかめたい。
そこで、現今の中心部、下市・上市地域の含まれる犀川の流域にどうして古墳の発見がないのだろうか。それには前提になっている調査の不充分さも考えられる。又後代の開発による破壊も考えて見なければならぬ。けれども、絶対数に於て少なかったのだということも考えてみる必要がある。
現代栄えている市街、集落は、必ず以前から栄えていなければならないという空想は、事実の前に何の説得力もない。なぜ肥沃な低平地に農業が移っていないのかの疑問には、背後に農具とその開拓集団の数の制約が多く、積極的な濯漑の便をはかり得なかったということがひそんでいると考える。
@ABの地域は現在、奥石隈といい、須波岐といい、五反田といい、人口まことに稀薄、無人の所もある。けれどもこれらの地域こそ、古代郷里制による(五十戸)物部郷の中心であったと考えなければならぬ。
次に西坂であるが、永く西ノ保と呼ばれている。いったい古代郷里制に於て保とは、五戸を以って保と呼ばれたが、それを今当ててみるには、あまりに古墳が多すぎる。 だからとる所でない。
次に保とは都城の制(条坊制)に保があるが、狭小なこの地域には、これ又考えにくい。さればこれは、荘園時代の呼称と考えられる。したがって古墳時代はやはり物部郷の一部と考えられていなかっただろうかということで、まとまらぬ稿を措きます。