会報7号 昭和48年10月8日     あやべの文化財    綾部の文化財を守る会のHPへ
青野遺跡の調査を終つて  由良川考古学会 中村 孝行氏
1.はじめに
 青野遺跡の発掘調査は、昭和47年12月20日に開始され、昭和48年4月5日に終了した。この期間は綾部地方では最も天候が悪く、雪と雨、それに冷たい北風にはばまれた悪条件のもとでの調査であった。連日の悪天候のため地盤はぬかるみ、遺構の確認は、困難を極めたが、今回の調査において合計16基の住居址と7箇所の土、及び遺構内を走る何本かの溝を確認し、多量の土器を始めとする貴重な遺物を得ることが出来た。
困難な条件のもとではあったが、調査を無事終了し得たことは、関係各位の非常な御援助によるものであり、特に原因者として調査費用を負担して頂いた関西電力株式会社、また調査中何かと御指導を給わった村上祐二会長を始めとする綾部史談会会員の諸先生方には、調査に携わった者の一人として心より謝意を表するものであります。
 さて青野遺跡は、古くから石包丁を始め、弥生式土器、土師器、更には須恵器等の散布地として確認され、重要な遺跡として注目されている所であった。ところが昭和47年に関西電力株式会社は、綾部市内の電力不足解消のため、この地に変電所を設置すべく用地買収を行った。工事は48年夏の電力需要ピークに間に合うように開始するとのことであり、連絡を受けた綾部市教育委員会は協議の結果、同地の試掘調査を行うことを決定した。 調査体制としては、市教委を調査主体とし、京都府教育委員会の技術指導を受け、調査員として由良川考古学会会員が委嘱を受けた。なお調査費用は原因者負担の原則により、関西電力が全額負担することとなった。
 更に、試掘調査がほぼ終了した48年1月の初旬になって住居址・土構等の遺跡が確認され、試掘調査は本格的な発掘調査に移行することとなった。
 以上のような経過を経て調査は行われたのであるが、ここで発掘調査前の青野遺跡の状況と問題点をもう少し明らかにしておきたい。
 青野一帯の由良川沿いの地域は、昔から遺物の散布地として知られていた。古くは「綾部町史」(昭和33年刊)にも記されており、その重要性は広く知られていた所であった。しかし遺物の散布は確認されていたものの、この地が遺跡として遺跡地図に登載されたのは、昭和47年10月発行の「京都府遺跡地図」が最初であり、関西電力が遺跡地を変電所用地として買収したのは、この地図の発刊されるわずか数ヶ月前であった。この地図を見た関電関係者からの相談により、調査が実施されたのであるから、遺跡地図の発刊がもう少し遅れていたら、青野遺跡は調査を行われることもなく破壊されてしまっていたかも知れない。
 ともかく時間的な制約を受けながらも一応の調査を行い得たことは、せめてもの救いであったのかも知れない。しかし開発による遺跡破壊に対し、常に後手にまわっている文化財保護行政の一端が明らかにされ、また保存についても何ら有効な処置が取られなかったことは、青野遺跡の重要性を知る者の一人として誠に残念でならない。

2.調査概要
所 在 地 綾部市青野町西吉美前17番地1
調査面積 約2874平方米
種  類 遺跡散布地
調査期間 試掘調査 昭和47年12月20〜48年1月15日
発掘調査 昭和48年1月16日〜4月5日
調査責任者 青野遺跡発掘調査委員会
調査担当者 由良川考古学会

3.遺 構
a.住居址
 今回の発掘調査では合計16基に及ぶ住居址が確認された。各住居址についての詳細な詳細明は省略させて頂き、大略のみ記しておきたい。
 住居址の形は、隅丸方形、円形が見られ、その殆どは竪穴式住居址であった。ただ7号住居址と呼ぶ一基だけは、平地住居であった可能性が強い。円形住居址は15号、16号の二基である。各住居址の規模は様々であって、隅丸方形住居で最も大きいのは、11号住居の一辺約7米であり、最小は5号住居の一辺約3.3米である。円形住居は、完全に発掘した16号住居が直径9.5米あり、15号住居は南側の約半分を調査し、推定径は約8米である。
 各住居址は、数個の柱穴とかまど、または炉址を有しており、1号、9号、11号の各住居址では、明確な貯蔵穴が確認された。
 各住居址の時代的関係は、現在遺物の整理途中であり、出土土器の時代判定によって明らかに出来るものと考えている。

b.土?
 青野遺跡では合計7箇所の土?が確認された。これらはいずれも長さ2〜3米、幅0.5〜1米の溝状の遺構である。その底部は船底状を呈し、内部からは黒色土に混じった多量の土器片を発見することが出来た。いずれもその形態から見て墳墓ではないかと考えられる。

c.溝
 発掘区域のほぼ北端において、東西に走る大きな溝が確認された。この溝は幅約3米、現地表面から底部までの深さは約2米を測る大規模なものである。更に東西両方面ともその末端は確定されず、上流及び下流へ長く連続しているものと思われる。この溝の内部からは土器を始めとする多量の遺物が検出された。しかし、それらの遺物を見ると、弥生式土器の破片から須恵器まで含んでおり、この溝の掘られた時期は古くとも古墳時代であり、実際にはもっと新しい時代の遺構であると思われる。ともかく明確な年代判定は、遺物整理の信仰に伴い明らかにされるものと思う。

4.遺 物
 遺物として現在までに確認されているものは、多量の土器片、石器、鉄製品、玉類がある。しかしいずれも整理の段階であり、時代判定や個体数については明確に出来ない現状である。ただ既に洗浄を終わった土器だけを見ると、弥生時代の中期頃から平安時代迄の遺物が存在しているようである。
 特に弥生時代の土器は比較的個体数も多く、様々な形式のものが見られ、綾部地方の弥生研究の上で重要な資料を提供してくれるものと思っている。
 石器としては、石鏃・石斧・石剣破片・石錘などがあるが、いずれも未整理である。この内注目すべきものとして環状石斧の破片と思われるものも発見されており、綾部市内では勿論最初の発見であって、貴重な資料と言わなければならない。
 玉類は、管玉と勾玉が各一個住居址内より発見されている。

5.結 語
 今回の青野遺跡の発掘調査は、私達に様々な問題と新しい発見をもたらした。一つは、綾部地方における始めての住居址の発見と、かって見なかった程の多くの土器類の遺物である。また他の一つは、埋蔵文化財の保護に対する姿勢の問題である。前者は、現在整理が進められており、整理作業が終了した後に報告書として刊行され、これらの資料を用いた研究もなされるであろう。しかし埋蔵文化財の保護の問題は、現在における課題であり、、全国各地で起こっている埋蔵文化財の破壊と、それに対する保護運動にもかかわらず、重要な遺跡がここでも破壊された訳である。青野遺跡の場合、試掘調査の段階で遺跡保存のための有効な処置が取られなかったことは、調査員として誠に残念であり、貴重な遺跡が消え去ってしまったことに著しい怒りを感じるものである。青野遺跡の破壊が、今後の埋蔵文化財の保護運動の上で新たな教訓として生かされることを希望するものであります。(7月18日)