会報第26号 昭和63年6月1日
 山家史誌を編集して  山家史誌編纂委員長  小林 茂 氏
 昨年12月9日、インクの匂いも新しい山家史誌を手にしたとき、十年余の苦労「特に昨年は最終時期」が一度にふっとび、思わず快哉を叫んでしまった。
 思い起こすと昭和51年編さんに着手してより、あらゆる困難を克服し、7名の物故者も出る中で、今日の出版にこぎつけたことは、山家地区民の物心両面の声援と期待に対し、献身的に尽力いただいた編さん委員各位の熱情の賜と深く感謝するものである。ここに編さんの過程で、また完成後に得たこと、感じたことなど、思いつくままに述べてみたい。
 1,皆で作る、みんなの山家史誌
 昭和52年8月の委員会で、山家村誌、同後編の記述の反省から「庶民の側に立ったものを皆で作っていこう」と確認した。その具体化したものは次の2項目である。
@各町区懇談会
 これは各町区を巡回し、編さん説明と資料の開き取りを行った。
 神社や寺の由来、道路や橋などの事業、伝説や昔話、民謡や童唄など古老の語りロに思わず身を乗り出す仕末であった。編さんの都合で全部収録できなかったのが残念だったが俊日の機会に譲りたいと思う。
 特に、「きねがころげる(戸)」「薮の町(広)」「お光吹越し(鷹)」「籠原(西)」「孫七の船頭(上)」「弥平次(替)」などは、今後の課題として面白そうである。

A各町区紹介
 編さんの過程で「町区誌」の原案として歴代自治会役職員名簿−自治会長・代理−が提案されたが、民衆優先の立場を取った。各町区の顔ともいうべき巻頭の写夷では、どこにするかで各町区随分論議が湧いた。第17章わが町区でも、地図年表特記事項と再三話し合った上でようやく落着いた町区もあり、まさに「皆で作った史誌」と言えよう。

2.民衆の息吹き
 編集方針の中で「庶民生活の変遷」を取り上げ、先人達の生きざまに焦点をあてた。谷藩政時代の中で武勇伝のみでなく、「域下町」での庶民の姿や「村民の生活」の実態こそ一般庶民:私蓬の祖先の生きざまが親近感をもって迫ってくるものと思う。そんな中で次の三項を特記したい。
 @明六一揆
 山家地区全員とも言えるほどの大一環、受難の項(93頁)の「納税のほか武士の肩代りに兵役にとられるのは堪えられない。みんなの為にひどい目にあったのに人々は冷たいもんや」と語った当時の人の心情を考えると、「自分だけよい子になり、他人の犠牲の上にあぐらをかく現在の世?」を風刺した言葉とも受け取れそうである。
 A戦中・戦後の生活
 山家地区への空襲こそなかったものの、学童疎開の受け入れ常会の活動戦後の物資不足と配給の状況など、まさに生きた歴史と言うべさだが、特記すべきは敗戦直後の荒廃と混迷の中で昭和24年夏「山家読書会」が発足し、教養の自主活動として13年間存続したことで、山家人としての意気と気力を感じさせられるのである。
 B子どもたちへ
 昔ばなし、伝説、わらべ唄、方言など写真やカットをふんだんに入れ、興味をそそるべく編集の工夫をしたが・・・
 「大下はんの足跡」「手まりつき」「おじゃみ歌」「子守り歌」等々さし絵を見ながら、自分と同い年の子どもの姿に、今の子どもたちは何を感じるだろうか。

 3.将来のビジョン

 既刊の山家村誌、同後編どららも「今まで」の記録はあっても、将来はこのようにとの計面はない。
 むしろ、ない方が当然なのかも知れない。しかし、大正14年刊行の山家村誌には無理でも、昭和26年刊の同後編に「将来の山家」が記述されていたら、きぞかし面白く何回も収り出して読むことだろう。そんな意味で将来像を座談会その他の意見も含めて記した。時あたかも山家地区絵合開発の計画から実施へ移る段階である。大いに活用願えれば編者として最大のよろこぴである。
も 余話
 終わりに補筆を!
@部数を940部としたのは財布の紐のしめすぎでした。1千部でよかったのではと思うくらいの注文でウレシイ限りでした。
A山家の女人として明治時代に筒井董波という詩人がいたことが判明−久後地平氏紹介−いよいよ文化の香り高い山家ということになる。
何はともあれ、山家史誌編纂の大事業が完成したのは、「山家ぐるみの応援」のお陰です。表紙の絵見返しの絵巻末資料本又全て。