会報41号 平成7年9月30日     綾部の文化財を守る会のHPへ
吉美千年講について  故木下 礼次氏
(平成七年度の挨拶にかえて) 
 綾部市小呂町の四方勇夫さん宅の仏壇の位牌の背面に次の事が記されています。
 五代目 士 大正十三年四月廿日没    俗名 忠左衛門
       姉 大正五丙辰年十二月十九日没 俗名 キ ヨ
 京都府何鹿郡吉美村大字小呂七十六番戸、四方忠左衛門同郡同村大字多田猪間義網氏、 発起ナル千年講二加入シ明治31年12月25日、金壱円掛ケ置ク、向ク壱百年ヲ経テ金壱千円ヲ申受ル約定ナリ 代譲リノ節ハ吉美村役場ニテ名前切り替ヘス
とあります。四方家の家人から千年講の事を問われて、私の調べた事は次の通りです。
 吉美村時報に
○吉美千年講報告
 一 金弐千八百八拾壱円五拾九銭五厘  但大正十四年七月三十一日現在高
    内訳  金 二千円             元京都府農工債券
         金 五百七十四圓十一銭   吉美信用講員組合預金
         金 三百七円四十八銭五厘  郵便貯金
 但明治三十一年十二月発企口数三百六十二口元出資一円
 一ロニ対スル現在金七圓九十六銭強
 右ノ通相違無之候也  大正十五年九月五日  吉美村千年講頭 坂本太郎


 とあります。つまり明治31年12月に、地方政財界に名をとどめている猪間義網さん違によって、積立講が企画発起されて、吉美村長を講頭として、元金壱円を利殖増加を図っていこうとするものです。明治31年(1898)から百年としますと1998年(平成10年)、今から3年後に千円を受取るという事です。
 四方忠左衛門さんは明治28年から31年にかけて小呂区の区長を勤めた人であり、妻の死去に当って位牌を作製し、前述の記録を残されているのです。子孫の為記録として、その権利保障には位牌が一番良いと考えられたのでしょう。
面白くもあり、明治の「ふるさと」の人々の経済思想をよくあらわしていると思います。
 千年講は吉美村事業として、村長を講頭として362口(講員)つまり362円を元金として発足しているのです。
 どのように増殖しているのでしょうか。

年  度 講  頭 積立総額 一口計算金
明治31年
(1898)
猪問義綱 362円 1口
 1円
大正14年
 (1925)
坂本太郎 2,881円59銭5厘  7円96銭
大正15年
 (1926)
  々 3.077円64銭5厘 8円45銭5厘
昭和6年
 (1931)
  々 4,047円79銭5厘 11円12銭
昭和10年
 (1935)
河北三郎 5,150円94銭 14円55銭
昭和11年
 (1936)
柏原義夫 5.327円48銭 15円4銭5厘
以下資料なし

 ざまざと蓄財の実績が示されています。金本位、兌換の金融制度のもと、村政は基本財産の増加をめざしました。民間にもこのような講による蓄財もあり、日本経済の発展につながったのです。
 なお吉美村では早くから報徳社の金融活動があり、大正14年新設の信用購買組合に、その業績を引きついでおります。
 このような風潮が村政としての多くの治績につながっていったといわねばなりません。これを無にしたのは戦争であり、戦後のインフレ、町村合併なのです。千年講はなくなりました。先祖のお陰とみる事はできませんでした。
 前記の位牌を史料とみるか、史料を記した文化財とみるかは、別として、生活の中にある文化の意味、経済生活の中での文化の意味を財の問題として考えてみる必要を本年の課題として考えてみる事を申しあげ、御挨拶と致します。