綾部の文化財を守る会 会報17号 昭和57年5月1日           あやべの文化財    綾部の文化財を守る会のHPへ
 考現学の必要   木下 礼次
 京都交通のバス運賃もタクシーの代金も随分高くなったものである。小呂から綾部までが、かつて30円であつたのが、いまは240円であり、8倍の値あがりである。しかも30円のころのバスは満員でぎゅうぎゅうづめであつたが、いまはガラガラである。ほんとうに高くなつたと思つたが、この感覚はしばらくであつた.なれてしまうとあたり前である。
 こんなことを考えながら神栄前を通ると、東側の土地は売却されて、建物はこわされ発掘調査も終了し、考古学研究の成果がつぎつぎと発表されている。
古代史研究の為、是非完全な究明をのぞみたい.思えば村島渚、村上祐二らの先賢が、石器、礎石などの断片の研究を怠らず行った成果といわねばならない。往時の神栄、郡是通りの殷賑を思う時、感、転たなるものがある。
 郵便局は駅近くに移ったが、元の場所は勧業銀行綾部支店で、いま病院と変身したのである.しかし元の郵便局は広小路の南海パチンコ店である.そのことをしやべるのは何才以上の方であろうか.駅前の綾部信用金庫本店も、占領軍の命令で、綾部市の自治体警察の庁舎がおかれたところである.それが中丹の教育局となり、そのあとに本店がおきまつたのである.既に駅前のようすの変化は歴史の時代の物語りである。しかり、既に戦中から戦後にかけてはまさに歴史の時代に入ったのでなかろうか。
 市史下巻のあとがきに、「戦後編は歴史研究の対象としてはあまりに近く、歴史記述となりがたい面もあつて・・・膨大な資料をどのように取捨選択するかがむずかしいことであつた」と記している.また綾部史談107号の編集後記に「大正期を分担して、意外に史料の乏しいことに驚いた」とある。どららも本当である。
 今日の膨大なマスコミの洪水のなかで、意外に資料の早く消失していくのは事実である。そうしてわずかな断片資料で、歴史として語り、記録化されているといわねばならない。果たしてこのようなことで真実の歴史が書かれていくだろうか。
 そこで一つの提案がある.考現学の必要ということである.これには社会学の方法のとりいれが必要である。そうして歴史学の基本である8Wを、現在の社会の考察に適応するということである。その例として、1,2の例をあげておこう。
 まず綾部市街の基本調査図を作成しておこう。そうして図上に道銘、施設、建物、それに付随する諸種の条件を記録化するという作業である。このことを早々に行なうことは、必ず市内の変化を歴史的にみる資料となることである。特に大きな変容は、その経過を克明に記録化しておくことである。
 たとえば、かって蚕都の文化的中心は並松の市民センター付近であった城丹があり、府の蚕糸業同業組合連合会があり、熊野神社があり、波多野記念館があつたのである。それを復元すれば大正、昭和前史の綾部像がうかぴあがつてくるのである。
 近世史の記述で、大へん役だつたのは米価の変動である。物価の変動をみるということは大切なことであつて、5年、10年ごとのもろもろの価格の変動を記録しておくことも大切である。
 このような作業の成果は、今後の歴史の研究に大へん役だつ資料となるのであつて、あえて考現学として提案するのめである。