綾部の文化財第9号 昭和49年12月15日発行より        あやべの文化財    綾部の文化財を守る会のHPへ
「綾部の城下町について」 木下 禮次

 綾部藩は九鬼氏二万石であり陣屋持であるといわれるが、これは城持であり従来の説は訂正されなければならない.
 寛永十年(1633)に綾部に人部した九鬼隆季は、創業の地を下市場(絃高東校舎付近)においた。
いわゆる下市場時代といわれるものである。綾部井堰水路の西側の台地で、由良川を東の眼下にのぞむ交通の要地に、南北45間、東西50間の藩邸を中心に、南・西・北の周辺に武家屋敷を謂集し、その西方に町屋を展開きせたのである.
そうして東は味方舟渡道をもって山家方面と通じ、西は福地町を設けて福知山道よりの入口となし、南は京道を設けて須知山を辿り、京街道と連結を図っている.
しかしてかかる下市場時代は慶安三年(1650)の大火をもって、約二十年で終息し、上野時代に転換するのである.
 慶安四年(1651)に上野の台地に城地を設定するが、それは東本宮山より西藤山に到る台地であり、本宮山の西麓に南北70間、東西43聞余の藩邸をおいた.そうしてその西方に家中といわれる武家屋敷を構成したのである.
 家中の四囲として田町の坂上に大手門をおいて正門とし、上町よりは新宮口門、田野から田野口門を設けて、周辺を固めている.これを現在の状況と比較してみると、旧綾部小が藩邸地であり、南に馬屋、北に学問所・御蔵を配列していた.そうして農事試験場や綾部小学校、周辺の民家は武家屋敷地で、屋敷町、仲ノ町、土手町、横町、枕町、南町などの町名が存在しており、藤山山麓に隆興寺・西福院が併列していたのである.いま民家の一部に武家屋敷が残されている.
 綾部郷十二ケ村はなんらかの意味で城下村的な性格を有することになる.特に城地より見おろす北の平地の綾部村・坪内村は、町分といわれ城下町として展開したのである.つまり綾部村に本町:143間2尺、51戸、西町:173間、63戸、西新町:94間、40戸、坪内村に田町:69間3分、奥行とあわせて48戸、新町:143間2尺、61戸、上町:83間5尺、33戸と六町があり、町家278戸(天保年間)が、井倉村より東の町境迄、7町37間の間に存在したのである.
 そうして城下町の入口は、西町の北、西新町の西、上町の東に、それぞれ土塁を設けて出入りを制限した.現在の西町一・二丁目、広小路、本町(東・西本町、上町)、田町、新町の地域がそれに該当しており、道路がT字路となり、浄光寺、了円寺、熊野神社が配置され、町内の各地に溜め池を設け、それを溝をもって町内に配水するなど、小規模ながら城下町的片鱗を伺うことができる.
 従って勤中の入口である田町と本町・西町の合流するあたりが町の中心であり、藩経済と密着した商家が集まり、その周辺に半商半農の町屋が散在し、農繁期は道路いっぱいに農作業が展開されたことは古老の伝えるところである.
他領である福知山・舞鶴・山家、そうして京都に通じる街道は、西町の北の地蔵堂付近から井倉新町・井倉を経て福知山へ、舞鶴・山家へは由良川の渡Lにより、また上町の東より須知山峠をへて京郡へと相通じることとなり、町分を通らない場合、川糸適り付近は、重要な交通路となったと思われるのである。
 現在の市域が北・西方へと展開していったのは、明治大正期のことである.所謂、郡是を中心とLた工場地の設置、綾誤訳の設置、福知山街道の開発と本町四〜八丁目の新町の創設など、町様相の変化の要因をきわめて容易に明らかにすることができるのである.
付記:この小稿は、綾部の町を見直すべきであるという幹事の意見によりまとめたものである。


四方源太郎さま
新熊野神社、波多野記念会館のこと有り難うございます。
まさに進めておられます並松史編纂の神髄でありました。江戸期以前はさておき、九鬼陣屋跡、遺跡、船着き場、水運、直とすみ子親子兄弟の糸買いの逸話(川糸)、大本教史・・・・綾部の近世史の編纂完成を待っています。

私もその当時の綾部の様子が気になって、綾部の文化財を守る会の会報より、下記の資料を作成しました。執筆者の故木下礼次先生も付記で、綾部の町を見直すべきであるという幹事の意見により・・と書かれています。先生からの並松市編纂中の皆様への励ましの言葉としてお酌み取りください。