安国寺とその文化財        綾部の文化財を守る会のHPへ
綾部の文化財@ 昭和45年3月1日 会報第1号 木下礼次
 安国寺は綾部市安国寺町にある寺で、臨済宗東福寺派に属している古刹であるが、始めは光福寺といい真言宗であったようである。国道27号線から西へおれてしばらくいくと、巨樹や老樹に囲まれた安国寺に達することができる。そこには桜や楓樹が多く、春秋観光の名所であることを知ると共に、境内にある子安地蔵尊尊氏夫婦、義詮の宝篋印塔などに、往時の勢運をしのぶことができる。
 安国寺起源は詳らかでない。その所在が史上に明らかになるのは、鎌倉時代で後の関東管領となった上杉氏との関係においてである。上杉氏皇子将軍宗尊親王に従って関東に下向した勧修寺重房を祖とする。
 重房丹波国上杉莊所領とするが、その領内光福寺氏寺のようにして尊崇したことは、上杉朝定高槻保土地寄進状などで充分伺うことができる。
 足利尊氏が全国的に安国寺利生塔をおき国分寺の例にならおうとしたことは一般によく知られていることであるが、丹波安国寺として光福寺をあて、康永三年(1344)安国寺と改称し、貞和二年(1*45)全国安国寺の一として選定している。以後代々の足利将軍の厚い尊崇と保護をうけることになるのである。足利氏と光福寺(安国寺)の関係は、足利氏上杉氏姻戚関係によるものであって、特に尊氏生母上杉清子が、自分の出生、生育の土地として、なみなみならぬ気持ちを光福寺によせていたことは、寺内に所蔵される美しい「上杉清子かな書消息文」の行間に伺うことができるのである。このことは尊氏生誕国碑清子子安地蔵信仰の伝承によってきたるところを明らかにするものである。
 尊氏安国寺開山として自分の最も尊崇する万寿寺住職天庵妙受をあてたことは、乾峰士*の手になる「天庵和尚入寺山門疏」という文化財の逸品を当寺に伝えることとなるのであるが、安国寺には、この他多数のすぐれた文化財が所蔵されている。それら個々については後で述べるが、足利将軍管領また守護大名関係の古文書類は、中世郷土の動向を理解する唯一の文献であり、寺領の変遷消長を物語る。その内容は荘園関係の研究に欠くことの出来ない好史料である。なかでも尊氏日向国国富荘寄進した書状は、安国寺設置について、尊氏の心情を伺わしむるものとして学会有名なものである。
 安国寺は、上杉氏足利氏との関係で室町時代に栄えたが、やがて足利氏勢力の後退は、そのまま寺運の衰退につながることとなり、寺塔大破をみると共に、その所領もほとんど地方武士の奪うところとなる。
 そうして江戸初期にはわずかに二反余りの田地しかもたない全くの地方寺院となるが、綾部藩主九鬼氏山家藩主谷氏の尊崇や、梅迫豪農高雄氏寄進などを受けた記録を残しており、往時の隆昌を今日に伝える地方寺院の有力なものととしてその存在を誇っている。
 従って例年多くの著名人が訪れるところであるが、先年この地に曾遊した吉川英治が、早速その著「私本太平記」のなかで、一章に丹波国安国寺をとりあげたことは、読者の記憶になお新しいところである。
 以上安国寺について簡単に紹介した。「綾部の文化財を守る会」として、第一回史跡めぐり安国寺で行うことにしているので、参考にしていただければ幸甚であると思い、一文を草した。是非多数の方々のご参会をお願いする。

釈迦三尊像、本寺の本尊で中尊は釈迦如来、向かって右は文殊菩薩、左は普賢菩薩で、いずれも室町期の作と思われる。中尊は菩薩のような宝□をゆいあげた宝冠をかぶり、身には如来にふさわしい□衣を着ているが、菩薩のように胸飾りをつける。手は禅僧のように禅定印を結んでおり、盛上げ彩色の装色をしている。如来でありながら多く菩薩の姿をしていることは、修業途上にある釈迦の姿に禅宗として重要な意義を認めたものと思われる。

重要文化財 地蔵菩薩半跏像木造彩色寄木造で穏和な藤原様式の仏像であるが、各部の硬さが目立ち、おそらく鎌倉時代の作品であろう。安国寺光福寺といったころの仏像と考えられ、左手に宝珠、右手に錫杖をもち、左足を折りまげ、右足を垂れさげる半跏地蔵菩薩で、□衣を着けた胸元に裳の上端があらわされているのは珍しい。尊氏地蔵信仰は有名であり、さまざまな逸話が伝えられているが、この像にも母上杉清子が男子の出生を祈願して尊氏を生んだという伝説が結びついている。

重要文化財 天庵和尚入寺山門疏  安国寺説明の中でのべたように、高峰乾日の弟子であった天庵妙受康永四年1345没)が初代の安国寺住職となったとき、乾峰士曇が書いたと伝えられる祝辞である・この書は元の書風を自家のものとし、端正のうちに鋭い筆法であらわしていて、まことに堂々としている。
奥にある年号は欠けてわからなくなっているが、康永元年(1342)の作と伝えられ、乾峰58才のときの筆跡である。

市指定文化財 安国寺文書、紙本墨書三巻安国寺領に関係した古文書を集めたもので、南北、室町時代安国寺を中心にした丹波地方の歴史を研究する上に重要である。尊氏などの歴代定利将軍の御教書上杉清子の消息文など重要な古文書が多い。安国寺創立に関して尊氏の心情についての文書は、前に述べたところですが、尊氏、妻赤橋登子の遺骨が分骨されて本寺におくられたことも、二代将軍義詮御教書によってわかる。

重要文化財 医王寺阿弥陀如来坐像 梅迫町内谷にある医王寺は、往時内谷の隆盛時に栄えた寺であったが、現在一堂宇のみ残す無住の寺で、現在安国寺の管理するところとなっている。小高い丘の中腹のこの一小堂に阿弥陀如来の坐像が安置されている。医王寺はもと薬師如来が本尊であったことは、寺名からも伺えるところであるが、その本尊が盗難にあったので、かわって他寺から移されたのがこの阿弥陀如来像であるといわれる。
 この像は肉身部が粉留、衣の部分が彩色で仕上げている。如来像は普通□衣だけをつけるが、これはその上に袈裟をまとう姿になっており、鎌倉後期彫刻の特色といわれる盛上彩色で華麗な文様をあらわしている。
 胎内背面に「元享三年(1323)三月日法印尭円」と墨で書いてあって、この像の製作年代と作者がはっきりしているのは貴重である。尭円は京都三条仏所大仏師である。
 三条仏所院派仏所と共に藤原時代から京都仏所の名声をたかからしめた。この仏像は、京風の影響を受けた力強い作品で寄木造割りはぎというつくりかたである。
木下礼次 記
引用文献
京都府史跡勝地調査会報告・・・京都府
京都の文化財丹波編・・・京都府教育委員会
何鹿中世史料・・・綾部史談会