会報:綾部の文化財77号                 HP綾部の文化財
綾部の文化財シリーズ(二十一回)
室尾谷神社
  綾部史談会々長・十倉志茂町 川端二三三郎先生 

 社地

  綾部市五津合町寺内(てるち)109番地

  君尾山光明寺の西北方の山麓左岸に鎮座

 祭神

  五十鈴依姫命(大国主命の孫姫・綏靖天皇の后)

 氏子圏

  上林川の上・中流域を占める。上林川最大の支流畑口川流域旧藩制村の七か村、および本流との合流点の大町村付近の四か村を合わせ十一か村の惣社(『丹波負笈録』)。

 近世初頭には畑口川の上流域の市志・市野瀬・水梨・辻の四か村(現五泉町)が山家藩領に属した他は全て藤懸領であったが元和年間に清水・遊里・長野(現五津合町、陸寄町の一部)三か村が収公され、後に園部藩領となったところから二藩一旗本領が混在する形となった。宮元村は遊里村。現在の氏子数は約二百八十戸。


社伝

明治十六年の「神社明細帳」(控)には次のように記す。

草創年不詳 古往大町村と畑川村(『丹波負笈録』)畑河内と記す。現在も畑口谷と呼ぶ)の間の字阿須伎に鎮座。昌泰年中(898頃)阿須々伎神社と号し、保元年中(1156頃)蔵持丹波守守護神としたと伝える。その後、承久の兵乱(1219頃)に衰退したので貞応元年(1222)、社殿を阿須伎より遊里村室尾谷に遷し、室尾谷明神と号したと云う。

  これによれば古社名は阿須々伎神社であったことになるが、延喜式登載の阿須々伎神社が吾雀郷(後の志賀郷)金河内の阿須々伎神社であることは疑いのないところであって、明治初年に式内社の格付けを目論み、阿須伎の地名に付会したと云う他ない(阿須伎の故地に今も社の跡と伝える所がある)。

 当社所蔵の棟札によれば、正和二年(1313)に本殿が再建され、元応元年(1319)覆屋が竣工したことが分る。  

  本殿棟札(長四七・三センチ)

 当社建立者正和二年癸丑自四月廿八日

 始之同七月廿七日棟上同十月十日宮移

 其後経七ケ年元応元年己未六月之頃葺

 之 建立之大土(工)南都巧匠末子宗高

 葺之大土(工)丹後国番匠藤原国家 自

 建立之始至□葺之終所入用途彼是百貫

 文同□合力□人祈現世悉地萌後生善苗也 大願主僧□□□心□氏人等□□(敬白か) 元応元年七月

 これによれば、本殿の造営にはるばる奈良から工匠が来てあたり、覆屋は丹後の大工の手によって葺かれている。入用百貫文米百石を下ることはない。大願主の僧は君尾山光明寺の僧であろう。

 近世における造営記録としては安永八年(1779)に新社殿を建立したことが知られる。これが「神社明細帳」に挙げる梁間四間、桁行三間半の社殿と見られる。

近代においては昭和十四年・二十六年に拝殿の改築、昭和三十三年に舞殿の改築が行われている。

境内社

同書には境内社としてつぎの二社をあげる。   

〇 高森神社

   祭神 元明天皇 倉稲魂 大山?命

       菅原道真 火産霊神

       外二三座不詳

       これらは明治六年、政府による神社改正の際、末社として合祀されたものである。

   建物 梁間 一間 桁行 一間

 〇 十二社神社 

   祭神 不詳

   由緒 不詳

   建物 梁間 一尺 桁行 一尺 

境内

   
一之大鳥居(『丹波誌』。 大型の両部鳥居である  自然石で石工刻名入り手水舎丁未(天明七年)
泉州信達庄市場村 西山宇八
 同苗惣助 

〇 一之鳥居 在中に建つ(『丹波誌』。大型の両部鳥居である。

〇 手水舎  大型の自然石(二・一×二十五メートル)で、石工刻名がある。
         丁未(天明七年)泉州信達庄市場村 西山宇八 同苗惣助
〇 石灯籠  左の各年次に造立
         安永四・天明八・享和二  天保八・十・十二安政四

 
京都府登録文化財で応永三十二年(一四二五)乙巳
阿形(三十八・六センチ) 吽形(三十八・五センチ)
大願主 道義敬白
 檀那 玉井殿敬白 大仏師法眼 林皎圓宗 

随身坐像
社蔵の文化財として特記すべきものは二駆の随身坐像で、墨書によって作者と製作年代が確認できる貴重なものである。膝部分が欠損し、原形が確認できないのが惜しまれる。

応永三十二年(一四二五) 乙巳阿形(三十八・六センチ)

吽形(三十八・五センチ) 大願主 道義敬白 檀那   玉井殿敬白

 大仏師法眼 林皎圓宗  代物 弐貫伍百文(一部省略)

これらは京都府登録文化財で市内最古
の随身像で、これに次ぐものとしては睦寄町の坂尾呂神社の随身像((康正三年・一四五七)がある。奇しくも作者が同一人で、両社の随身像の墨書を併せ検討すれば、随身像の由来をある程度類推することが出来る。

 坂尾呂神社の場合は次のように記すが、室尾谷神社の記載形式からみれば、願主は将軍または同等の人物で、土岐季遠は地元の武士であったと見るべきであろう。

   願主 源 朝臣   土岐季遠敬白

 当時の上林庄は相国寺領と仁木氏領に二分されていて、坂尾呂神社付近は相国寺領に帰属していたと思われる(『蔭涼軒日録』)。この在地の管理にあたった地頭土岐氏が庄内安穏祈願のため、造像を京都の仏師に依頼したことが銘文に見える。

 室尾谷神社付近も同様に相国寺領として将軍家が強い権限を持ち、直接には玉井氏が管理にあたっていたと見ることができる。いずれにせよ幕府直轄地(御料所)に近い荘園を管理する立場の在地武士であったと考えられる。

  そこで想起されるのが当地域にのこる蔵持丹波守の伝承である。蔵持氏は室町幕府の下で専ら御料所を支配していた一族で、上林庄が幕府御料所となった際に入部したものと思われる。当社の由緒には平安時代のこととして丹波守を挙げているが、実際には室町時代に荘園管理に当たった武士であったのではないかと考える。

  室尾谷神社西方の遊里・大町の境目付近の丘陵に立地する乳母カ城を蔵持殿旧栖とする伝承がある。丘陵端に横堀をめぐらした特異な構造であるが、築城の時期と右の伝承の関連性を吟味して見る必要がある。

祭礼

   
秋の大祭の神輿巡幸で最後の練り込みです 

祭礼には夏祭り・秋祭りがある。秋大祭には奥番(畑口川流域七カ村)・口番(本流流域四カ村)交互に子供神輿の巡幸が行われ、荘重な神楽舞が奉納されている

事務局追記
 綾部の文化財を守る会では十月の第二日曜日に催行される秋の大祭取材には二度行き動画でも撮影しております。神輿巡幸、お旅所市野瀬公会堂前での獅子舞、神輿巡幸帰着後の獅子舞は綾部市いや京都府北部でもトップクラスです。表天狗の面、裏はお多福の面を着けた獅子使いに誘導された獅子舞は・道行の舞、・鈴の舞、・悪魔祓いの舞、・剣の舞等五通りの見事な獅子舞が奉納されます。