綾部の文化財77号                           HP綾部の文化財
NPO法人北近畿みらい塾」
          細川幽斎と田辺城〜天下分け目の籠城戦(二)
            
綾部の文化財を守る会 会長 村上高一 氏

 
舞鶴市田辺城の心種園内の

「古今伝授の碑」

 慶長五年(1600)七月、大阪方軍勢(西軍)は、福知山城主小野木(きみ)(さと)の統率の下に、総勢一万五千人の兵力で、丹後田辺城を包囲、ここを守る細川幽斎を攻撃して来ました。幽斎は弱小な兵力を補強すべく、家臣を町へ遣わして領民の協力を求めました。

 それで領内の百姓、郷士、町人の有志も集まり、更に城下の寺院の中で、桂林寺は和尚が弟子と共に十四、五人、また瑞光寺は住職が随身の雑兵をつれて入城しました。

 籠城には食料、武器が必要でしたが、食料は領内外から調達し、武器はかねてから武器庫に用意されていたが、弓師、矢師その他諸職人を城内に入れて用いました。

 七月十八日、大阪より飛脚が到着、昨十七日忠興内室(ガラシャ夫人)が生害したとの悲報を伝えましたが、程なく大阪方軍勢の押し寄せて来る報も入りました。

 そこで急ぎ宮津城内に残っていた城主家族(長男忠興の家族)を田辺へ引き取り、宮津城の焼却を行いました。こうして田辺城への集結することの出来た兵力は五十余人、雑兵ともどもで五百人でありましたが、各人へは城内の持ち場が書面で伝達され、また城内の諸法会、あい言葉などの周知徹底が図られました。こうしている間に大阪方の軍勢は七月二十日、丹後国境を越えて侵入し、翌二十一日、攻防戦が開始されました。

 戦いは最初の頃は激しく、一進一退でしたが、八月に入って膠着(こうちゃく)状態(じょうたい)になり、西軍が人や物の出入防止のため、田辺城を囲む竹の柵を作った関係で事実上停止状態になりました。この時期の西軍は積極的な戦いをせず、空砲ばかりを撃って日々を過ごしていたともいわれています。また山家の領主(たに)(もり)(とも)は幽斎と歌の師弟関係にあったため、攻撃のふりしただけだったとのこと。(谷の空鉄砲)

 古今伝授と開城。古今伝授とは、平安時代にまとめられた「古今和歌集」の解釈の秘密を、その道の堪能な人に伝授したことです。

 この頃の古今伝授は公家の三条西家に代々伝授されていましたが、三条(さんじょう)西実(にしさね)()の子、公国(きんくに)は当時十七才で若かったので、父からの伝授を受けられませんでした。

 そのような中、伝授の相手として選ばれたのが幽斎でした。足利将軍家、公家と深いつながりがあり、和歌に長じ、能をはじめあらゆる芸能に通じていた幽斎は、まさに格好の人物でした。彼は足利将軍に従っている頃から、三条西実枝により古今伝授を受け始めていました。

 慶長五年(1600)三月頃、徳川家康と石田三成との政権をめぐる対立は険しさの度を増して来ました。この情勢下で幽斎は後陽成天皇の弟である八条宮(はちじょうみや)(とし)(ひと)親王に古今伝授を始めます。しかしそれは五月には中断しました。

 その後、細川ガラシャの悲報が届いた翌日の七月十九日、智仁親王の家臣に幽斎が送った書状が伝わっています。

 それは田辺城から古今伝授の証明状を贈りたいので、大阪方の奉行、前田玄以に断って、使者を送ってほしいというものでした。幽斎はこの段階で決死の覚悟を決めていたのでしょう。

 そのような覚悟の脳裏をよぎったのは、三条西実枝から伝えられ、智仁親王にまだ伝えきれていなかった古今伝授のことでした。これを伝え聞いた智仁親王は、急ぎ田辺の幽斎のもとに使者を送り、二十七日には田辺に到着しました。使者は幽斎に降伏するように伝えますが、幽斎は断ります。

 そして幽斎は、田辺に持って来た貴重な書物を後陽成天皇や智仁親王に贈るよう伝え、古今和歌集の注釈書を入れた箱と、伝授の証明状を使者に託しました。

幽斎はその時「(いに)しえも今もかわらぬ世の中に 心の(たね)(のこ)(こと)()との歌を一首添えて贈っています。

その後公家、朝廷では幽斎をなんとか救おうとの動きが内々で活発化しました。

そして公家からは、西軍方の前田玄以を通じて、また朝廷では後陽成天皇が身ら勅使を田辺へ送ることを決めます。

九月の始め、勅使として中院通(なかいんみち)(かつ)などの公家が、前田玄以の次男、(しげ)(かつ)を伴って田辺にやって来ました。城を包囲していた西軍は勅使が来たということで囲みを解きます。そして田辺城に入った勅使は、文武の達人である幽斎を(たた)え、お互いに停戦するようにとの後陽成天皇の意向を伝えました。これを受けた幽斎は、天皇の意向に従い、籠城を止めることを決断します。

その後、田辺城は勅使と共にやって来た茂勝が受け取り、幽斎は玄以の城である丹波の亀山城(現京都府亀岡市)に移りました。

田辺城開城の時、幽斎は籠城していた人々に対してその苦労をねぎらい、家を失った人に対しては、材木を与えたと伝えられています。

こうして幽斎は西軍の圧倒的な兵力差にも拘わらず、この人生最大の危機を乗り切りました。幽斎が停戦に応じたのは、籠城開始から五十二日目の九月十二日。  

「天下分目の関ケ原の戦い」の三日前でした。

参考文献「前講に引き続いて」

「細川幽斎と舞鶴」発行舞鶴市(平成二十五年二月十二日)