綾部の文化財76号                      HP綾部の文化財

綾部の文化財シリーズ(第二十回)

 重文『石田神社』     姫路市 清水博之 様

 石田神社発見の経緯 

今から三十二年前、神戸大学の大学院で生涯の楽しみとして古建築の勉強をしていました。このとき綾部にフィアンセがおり、夏休みを利用して彼女を育んだ綾部の文化、古建築を概観してみようと思い立ったのでした。昭和五六年夏のことでした。

 フィアンセの実家(物部町)を基地にして神社建築に的を絞り、全三日の概観調査を計画しました。二日目の午前中に篠田神社、室町時代後期の五間社流造りというめずらしい遺構を見つけ、気分を良くしていたその夕方、石田神社に遭遇したのでした。

驚きました。三間社流造りの向拝部を欠いた遺構ですが、特に柱軸部の太い斗?や虹梁、美しいかえる又など極めて古い様式で、少なくとも室町前期、あるいは鎌倉時代にまで遡る可能性のある神社遺構(お宝の発見)でした。

神社周りに蜂が飛んでいましたが、構うことなく、かえる又の美しい植物文様や蝶の彫り物に見とれ、木太い斗?から鎌倉時代の確実な証拠はないかと探索していました。すると、蜂は左足大腿部をチクリと刺し、それでも神社妻面の虹梁や大瓶束の曲線を見収めて、腫れあがった左足を引きずり、フィアンセのいる実家に戻ったのでした。

まずはフィアンセの父母に有頂天になって宝物発見を報告しましたが、大学に戻ると夢かと疑い、秋に再度現地確認した後、研究室の多淵教授に報告しました。先生の意見も鎌倉時代の可能性のある神社遺構であること、そしてこの発見の処置を私に一任されました。

多淵先生は、私が詳細調査を実施し、論文にまとめ、重文への手続きを行うことは大学院での良い勉強機会となるという意図でした。しかしこの頃はやっと古建築の様式の流れが判り始めたばかりで、詳細調査を計画し、鎌倉と室町の様式差を論じるなど、この任の重さに耐えかねていました。お宝が重荷になってしまったのです。

そこで考えました。この発見は綾部の先人が造立し、古い文化遺産を何百年も綿々と守り伝えた結果によるもので、今後も後世に伝えて行くのも綾部の人たちであり、このお宝は綾部の人に委ねるべきであると。

テキスト ボックス: 篠田神社連三斗テキスト ボックス: 篠田神社妻部テキスト ボックス: 篠田神社三斗フィアンセの父母に託すべき人を相談すると、当時の教育委員長であった梅原先生を紹介してもらい、梅原先生の自宅に押し掛け、国の重文級の神社遺構があることを紹介し、その後の処置を託しました。無責任なようですが、これでホッと一息をつき、肩の荷を降ろしたのでした。

その後、梅原先生から綾部の古文化財に関与されていた関西大学の永井教授の手により詳細な調査がなされ、現石田神社本殿に残る古い棟札の「延慶四年(一三一一)造立」が様式的にこの石田神社恵比寿神社のものと考えられるという旨の結果を経て、昭和六二年に国重文に指定されました。

 

石田神社について

テキスト ボックス: 石田神社連三斗テキスト ボックス: 石田神社妻部テキスト ボックス: 石田神社三斗石田神社(恵比寿神社本殿)の特色は太い木割と美しいかえる又にあります。この太い木割について室町後期の篠田神社と比較した写真を掲載します。木割が太いというのは柱や柱上の斗?(組物)などが建物規模に比べて太い部材であるという意味で、写真で比較してもらえれば、石田神社が異常に太い木割であるのが見取れます。

柱が太いというのは平安以前の古代建築の様式的特色であり、柱を構造的に補強する「貫」や「筋交」は鎌倉時代に輸入された技術であったので、これらの補強技術を持たない古代建築は構造的にも太い柱は必要でした。石田神社は規模が小さく、構造的にこれほど太い木割にする必要はなく、古い様式を踏襲したものと考えています。

斗?(組物)の拡大写真も三斗、連三斗を石田神社(左)篠田神社(右)にそれぞれ掲載しますので、写真で木割(太さ)の違いを確認してください。 

石田神社かえる又について

次の特色であるかえる又は、その内部の彫刻に注目してください。ほぼ左右対称形になる植物文様が幾何学的に美しくデザインされています。蝶が花にとまる姿もていねいに彫られています。

石田神社が鎌倉時代に遡る可能性を端的に示すのはかえる又です。かえる又を時系列に並べた写真(前ページ)を見てください。古例として福井県小浜市の明通寺本堂(鎌倉前期)のかえる又を挙げます。

テキスト ボックス: (今田)厄除八幡神社本殿
み
テキスト ボックス: 篠田神社本殿
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テキスト ボックス: 篠田神社:向拝部の手挟
み
平安末以降は古建築に装飾的な要素が付加されるようになりますが、その意匠は明通寺のかえる又のような幾何学的な文様から始まり、時代とともに具象的な植物や動物に変化していきます。様式的に鎌倉前期の明通寺の後に石田神社のかえる又が続くのが判るでしょうか。室町中期の例として兵庫県小野市の浄谷八幡神社、室町後期の例として小浜市の神宮寺本堂をそれぞれ掲示しますので、時代変遷の流れを確認してください。

 

 

篠田神社について

中世の古い神社の構造形式は一間社か三間社が大半ですので、篠田神社が五間社であるのは珍しい形式です。また、室町後期の神社建築は彫刻的な細部装飾を多く伴うのが一般的ですが、篠田神社は装飾的な要素が少なく、この点は古式と言えます。その少ない装飾に向拝屋根裏に手挟みが4枚があり、植物文様が丹念に彫り込まれ、その植物文様の中に「筆」が1本配されています。

筆といえば、東大寺戒壇院の四天王、広目天が左手に巻物を握りしめ右手に筆を執り、虚空を睨む姿を連想しますが、神社の向拝裏の隠れた部位に配された筆にどのような意味が込められているのか興味津々です。

 

今田町 厄除八幡神社について

綾部にはもう一社、中世の古い神社遺構が残っています。今田町の総持寺に隣接する厄除八幡神社です。篠田神社を小規模にした五間社流造りで、向拝部から屋根が江戸時代の修理になっていますが、母屋の柱上の斗?(組物)は篠田神社より1時代古い様式を示し、室町中期頃のものと推定しています。五間社は全国的にも珍しい形式ですが、綾部には中世の五間社が二棟も存在することになります。 

あとがき

作年の春に妻の里、綾部に帰ると、母から石田神社発見のいきさつを書いて欲しい、綾部の文化財を守る会からの依頼といいます。

昔を想い出しながら書き始めると、今の自分が昔からほとんど進歩していないことに気付きました。石田神社の課題であった「鎌倉時代と室町時代の斗?の様式差」が未だに判別できないのです。恥ずかしい限りですが、青春時代の忘れ物を想い出させていただきました。

重文指定への労を請け負っていただいた梅原先生は妻の中学校の先生でもあり、夫婦そろってお世話になりました。今は亡き梅原先生に感謝いたします。

どこの馬の骨だか判らない男が突然娘の前に現れて、古びた神社がお宝だと浮かれてるのを暖かく見守っていただいた綾部のお母さん、ありがとう。またこの執筆の機会を設けていただいた「綾部の文化財を守る会」の皆様、ありがとうございました。 

テキスト ボックス: (今田)厄除八幡神社の斗?
篠田神社より古い様式を示す。

 

事務局後記

筆者清水博之氏は姫路市在住で大阪の渇恆コ組勤務の建築技師です。綾部の母とは当会々員で北斗農園々長の田中ふき子さんです。兄上様は我々の尊敬する故京都大学名誉教授・初代の豊中市にある国際人類学博物館々長であった梅棹忠夫先生です。

 

 

京都府指定文化財「斉神社の発見」

 かねてから室町時代の建物との噂のあった京都府綾部市下原町一00番地にある斉神社(いつきじんじゃ)が平成二十年十一月八日地元の宮総代、綾部史談会、綾部の文化財を守る会役員の立会の元、京都府教育委員会文化財保護課の福田技師先生達によって調査されました。

 この神社は室町時代中期のもので一間社流造、長板仮葺でありますが調査の結果発表は次の通りでした。「残念ながら古文書はみあたりませんでしたが、覆屋内部の神社の屋根は二重垂木(にじゅうたるき)であり、室町時代十六世紀のものである。又、扉裏に文亀(一五0二)の墨書銘が発見された。」と ! 

そして平成二十三年三月二十三日に京都府指定文化財をなりました。

 次ページに当時の綾部市教育委員会の故梅原三郎教育長から清水博之さん宛ての手紙を掲載します。