綾部の文化財76号                           HP綾部の文化財
NPO法人北近畿みらい塾」
          細川幽斎と田辺城〜天下分け目の籠城戦(一)
            
綾部の文化財を守る会 会長 村上高一 氏 

 
復元された現在の田辺城大手門と隅櫓 

 昨年九月十五日午後、西舞鶴駅の交流センターで、課題の講座が開催され、参加者は八十名近くあり、講師は稲荷教会神主の加藤晃氏でした。

 講座に当たって加藤先生は細川藤孝(幽斎)の生涯について、多方面の内容を要領よくまとめておられるので、私もそれに従って記し、少しだけ広く記述することにします。

 細川藤孝(幽斎)は戦国時代に活躍した武将であり、同時に「古今伝授」を始めとして書道、茶(香)道、(まり)、謡曲等に秀でた文化人でもありました。

 課題の籠城に至る彼の経歴を簡単に紹介します。彼は室町幕府下の武家の子孫として産まれ、細川氏の養子となり、天文十年(1541)八才で幕府に出仕。

 十三才で元服、藤孝と称し、十三代将軍義輝の側近となりました。永禄八年(1565)義輝暗殺、弟覚慶を救出し、若狭、越前を流浪、還俗して義昭と名乗りました。永禄十一年(1568)明智光秀の手引きで織田信長へ使者を送り、九月二十三日信長勢と入洛、十五代将軍宣下、幕府再興となりましたが、元亀四年(1573)になり、義昭の増長を見限り信長に臣従します。その後は明智光秀と共に織田信長に仕えて、丹後の平定、毛利氏と対抗、天正八年(1580)に丹後領主となりました。(宮津城を築く)   

   
舞鶴市田辺城資料館の細川幽斎像  江戸時代の田辺城と城下町 

しかし天正十年(1582)六月本能寺の変が興り、信長は自刃、藤孝は剃髪、幽斎と号し、息子の忠興に家督を譲りました。また宮津城の築城に取り掛かりました。また、光秀の熱心な誘い(忠興の妻は光秀の娘、後のガラシャ夫人)もありましたが、断り、秀吉の側につきました。その間宮津城の完成を目指し、同時に田辺城築城に取り掛かりました。

その後、忠興が中心となって秀吉の下で全国統一に、またその後、朝鮮出兵に積極的協力しました。更に慶長三年(1598)八月秀吉の死後、二大老、四奉行の中枢部の中で、政局動揺がありましたが、幽斎・忠興は政権の主流を見誤ることなく処して行きました。

 慶長五年(1600)丹後守細川忠興が徳川家康の会津遠征(対上杉景勝)に加勢して出陣中に、大阪方軍勢(西軍)が丹後の田辺城を攻め寄せたのに対し、幽斎が田辺城に立てこもって防戦したことを、田辺籠城と呼んでいます。同年には全国所々で展開された関ヶ原合戦の前哨戦がありますが、この戦もその一つです。

 先ず石田三成ら大阪方が、丹後田辺城攻略の理由としていることは、次のとおりです。

 細川忠興は多数の兄弟があるにも拘わらず、一人も豊臣秀頼公の警護をいたさず、ことごとく関東へ出向したこと、何の忠節もないのに新知行(豊後、杵築(きつき)領)を受けたことが不届きであるということで、近畿地方を中心とする武将へ出陣を命じました。

 これに応じた諸将は、丹波七人、但馬四人でその過半を占めており、中小の大名達を中心に十九名を数えていました。これに対して幽斎はわずかな士卒を従えて留守居をしていたので、丹後領内を総て守備することは不可能で、宮津、久美、
嶺山(みねやま)、中山、河守城を焼き
い、各城守備の士卒を残らず田辺へ集め、田辺一城に立てこもって迎え撃つことにしました。

(これ以後の経過については次回の会誌で紹介する予定です。) 

参考文献「田辺城の歴史」

舞鶴市教育委員会

舞鶴市田辺城資料館

(平成二十四年八月一日)