会報:綾部の文化財 第75号記載記事        HP:綾部の文化財へ

綾部の文化財シリーズ(第十九回)

旧岡花家住宅(木の花庵)大本   監修 綾部史談会々長:山崎 巖 氏

 
 国重要文化財の旧花岡住宅
 明治二十五年(1892)壬辰(みずのえたつ)の年に京都府綾部市に誕生した大本は、60年後の壬辰の年(昭和二十七年、1952)までに教団の基礎を固め、その後の60年で宗教界から信頼と注目を持って迎えられる教団となった。今年三度目の節目の壬辰の年「開教120年」を迎え「世界の大本」は亀岡市天恩郷に神教殿とみろく会館、ギャラリーおおもと建設など様々な記念事業に取り組んでおられる。

一. 序論

 農家としては京都府下第一号で国の重要文化財指定となった「旧岡花家住宅(木の花庵)」はもと岡花金五郎氏の住宅で京都府船井郡瑞穂町(現京丹波町)質志小字観音十九番地にありました。

 丹波地方に残る農家としては最も古い建物で、江戸時代中期の典型的農家型式、いわゆる「能勢型」を伝えるものとして、地元でも保存に努力してこられましたが、老朽のため維持が出来なくなり、取り壊しになるところを当時の大本教主が貴重な民俗資料として譲り受けられたものであります。

 昭和44年夏に解体が、終わり、その後、京都府文化財保護課の指導をうけ、昭和47年5月に京都府綾部市本宮町大本本部の地に復元され、同年5月15日国の重要文化財に指定されました。

 大本では“木の花庵”と名付け茶室として利用、永久に保存されることになっている。

 二. 由緒、建立年代

岡花家の由緒は明らかではないが、岡花家に所蔵する数点の古文書から、江戸時代はかなりの高持百姓で村役階級に所属していたと考えられる。

享保十六年(1731)の「田畑ヶ所附」によると、この当時所有していた田畑は田16反3畝16歩、畑9反4畝20歩で、石高にして24石4斗3升9勺を数える。

元禄郷帳や明治九年の高附帳による質志村の石高は120石足らずであるから、当時の岡花家は村高の五分の一の石高を占有していたことになる。

なお、24石という石高は丹波の山村でそうざらにあるものではない。所蔵古文書の中で最古のものは延宝三年(1675)のものであるが、これは銀3百目を貸した証文であり、17世紀中頃においても相当の財力を持った富農であったようである。

建物の建立年代は明らかでないが、形式手法から見て17世紀に遡ることは確かである。建立が慶安四年(1651)ごろとほぼ確証された北桑田郡美山町樫原の石田弘氏宅とは、平面形式は異なるけれども、構造や細部の手法に共通するところが多いので、当家も石田家と匹敵する古さをもつものと思われる。これよりして、ほヾ17世紀中頃に建ったものと認められる。

   
・南側立面図  木の花庵・南側立面図東側立面図 

三. 構造形式

 桁行12.1米、梁行8.8米の平面規模で、屋根は茅葺(かやぶき)入母屋造(いりもやづくり)(つま)()りである。

平面は表より土間に沿って「おもて」「だいどころ」「へや」の3室を並べ、さらに土間の奥にも1室を設け、大戸脇に土間の一部を囲って「まや」を設けたものである。礎石は野面石で、その上に柱をたてる。柱は栗の(ておの)()上の角柱(13.5糎角)で、()(ぬき)内法(うちのり)(ぬき)を通す。ただし「おもて」廻りだけはさらに()(ぬき)がまわされている。柱間が1間以上の土壁部分は中間に壁持ちの間柱がたつ。下屋は土間側に半間通りにあるだけで、上屋梁の梁間は4間ある。

折置(おりおき)(ぐみ)とし、両端に桁行梁を、中間に1間々隔に三通りに地棟を含む束ふみ梁をのせる。地梁は間仕切部を除く柱通りにまず梁行にわたされ、その上桁行にわたして上屋梁を支承する。小屋組は棟束をたて、その両側に母屋桁を支持する束をたて、その束の上端から水平に棟束に横木を差し込んで固めている。これは丹波地方の古民家に多く見られる特色ある手法である。

床は「おもて」廻りのみ畳敷で、他は板張りのまヽとする。壁は土壁で真壁造とするが、「おもて」廻りのみはたて板張壁としている。間口部は全体として非常にすくなく、「おもて」正面1間のみを引き違いとする。他は袖壁付引込戸形式としている。天井は全体に竹簀子(たけすのこ)を張っている。

四.構造の特色

 講造は非常に古風である。柱は室境通りに梁行に一間毎に配置されている。柱間は貫きによって固められ、(さし)鴨居(かもい)は1本も用いられていない。貫は地貫と内法貫だけで胴貫がなく貫数はすくない。飛貫は「おもて」のまわりにだけ用いられているが、これは意匠上の意味がつよい。

 ()(ばり)は、室境通りをのぞいて縦横に組まれているが、正面の「えんけ」を含む4尺通りと、背面の1間通りには地梁はかヽらない。したがって、この2つの部分は中央の構造部分に附帯したかっこうになる。この地方でも江戸中期以降のものでは、これらの部分は一部を必ず下屋とするが、当家ではこの部分は構造的に下屋的に扱いながら、なお天井高さは上屋高さに保っている。このように当家の軸部構造は、下屋が4間につく一般的な構造形式になる以前の型を示すものとして興味深い。

 小屋組は「おだち・とりい」組であるが、横木と棟束とのとり合せが、棟束に穴をあけ、横木の先を細めて両側からさし込み、くさびで締めるという原始的な手法によっているなど、「おだち・とりい組み」としても古い構造形式を示すものといえる。

(注)
高持百姓=田畑屋敷保有し、年貢夫役・雑税を負担する義務を負うとともに村落共同体正員として入会地になっている原野山林水利施設などを使用する権利をもっ百姓のこと。

地貫=柱と柱の間に水平に取り付ける部材を貫と呼び、その中で最も低い位置に取り付けるもの。

内法貫=鴨居の上部に通っている貫のこと。鴨居上の小壁を支えて、鴨居のタレを防ぐ塗り込み釣木を固定するなど、壁下地と共に雑作工事の役割を担っている。

飛貫=頭貫内法貫の間に入れる貫。

折置組(おりおきぐみ)=和小屋での桁と小屋梁の取り合いの方式で、小屋梁を柱で受け、その上に桁がかけられる組み方のこと。梁の下には必ず柱が必要になるため、小屋組の構造の影響で間取り、柱の割付けに自由度が少ない。小屋からの力を直接に流すことができる。

真壁造=和風建築に使われている伝統的な壁の構法一つ構造躯体として使う表面露出させ、の間に壁を納める方式です。

地梁=地中梁=土台の上に敷いている基礎。

五. 平面の特色

 
木の花庵平面図 

 平面の形式は、いわゆる妻入りたて割片土間型に属している。この妻入りたて割片土間型、すなわち妻入で、内部を棟通りで左右に分け、一方を通して土間とし、他方に一列ないし二列に室を並べるという形式の平面を持つ民家は、摂津国と丹波国の国境地方すなわち摂丹山地を中心として、京都、大阪、兵庫の三府県にまたがって分布している。当家はこの型の分布域の北限に位置していた。

当家の平面形の特色は、「おもて」すなわち座敷が十畳の大きさで半間だけ土間に張り出していること、土間の奥に幅一間の室のあること、の2つにしぼられる。

 座敷の大きいことは、当家が有数の高持百姓であったことからも推測されることであるが、この家の家格の高さを表現するものであろう。

 内部の構成はそうしたことを特に意図しているようである。

 丹波地方のこの型式の民家で、高い家格をもつ家はしばしば続き座敷として角屋に造るが、当家は角屋形式が成立する以前の型を示すものと思われる。

 土間の奥に室があるのは、これまでに知られているこの種の型式の民家の数多い例の中で唯一の例である。

 その用途は明らかではなく、隠居部屋あるいは米蔵といったことが想像されるに過ぎない。

 平面の寸法計画は、6.5尺と八尺を基準単位としている。「おもて」と「へや」通りの奥一間は6.5尺と柱間単位とし、「だいどころ」の桁行は8尺を柱間単位とし「おもて」の前の縁(「えんげ」という)幅は8尺の半分の4尺になっている。「おもては」畳敷を前提とした寸法構成になっている。

 六. 当住宅遺構のもつ意義

 
木の花庵位置図 
(一) 妻入たて割片土間型に属する遺構としては、梁間が4間で大きく、かつ17世紀に遡る古さをもつ点で類例がすくない。

()妻入たて割片土間型に属するといいながら、土間奥に一間通りの室がつくられるのは、これが唯一の例で非常に異色である。これは今後この型式の民家と、その周辺の民家との関連性を遡行的に考察する上で重要なものになると思われる。

(三)丹波民家の古い構造型式を典型的に示している。

()保存状態が良好である。梁はその大部分が残されており、柱も背面通りが全て中古材(釿仕上)に替えられていた外は、ほとんどが当初材で残されていたので、大部分は正確に復原することができた。

(五)古文書によってある程度由緒が明らかである。初期高持百姓の家構を示すものとして、歴史的にも意義が深い。
  外観、お茶室利用等の写真
  木の花庵の見事な軒
  木の花庵室内
 木の花庵を東側から見る
参考文献

大本本部発行 重要文化財「木の花庵」

綾部市発行「あやべ歴史のみち」

綾部市史上巻

カラー写真「綾部の文化財を守る会」ホームページから抜粋転写。