「位田の乱」について   会長 村上高一

 

右は高城山(たかしろやま)(標高212米)、左は低城山(ひくしろやま) 

 私は位田の高城山(標高212米)とその西のや低い低城山の麓に長く住んでいます。

 両山の写真で分るように由良川に臨んでおり、その川には平成6年に竣工した新位田橋があります。

 私は長い間位田を留守にしておりましたが、20余年前に帰って今日に至っております。

 標記の「位田の乱」についてははじめて聞き、その後自分でも少し調べてみましたので、今回はそれについて記します。

 さて、これから述べる史実は、室町時代末期から戦国時代初期のことで、それまでのわが国には出て来ない一般庶民即ち土民(どみん)土豪(どごう)が歴史の表舞台に登場してきて、当時の支配者の守護や守護代に立ち向って行った時代でした。即ち「位田の乱」は、土豪や国人たちが延徳元年(1489)から翌年にかけて、位田城を守って戦った騒乱(そうらん)でした。その資料としては(一)(りょう)厳寺(ごんじ)縁起(えんぎ)「本堂再建柱立文亀三年(1503)の記録」、(二)(いん)(りょう)(けん)日録(にちろく)(室町時代の動静を記す)があり、それぞれを要約して記しますと、

(一)ここに延徳元年11月6日、荻野・大槻諸牢人(しょろうにん)(浪人)が当国の守護代上原豊前(ぶせん)(のかみ)紀伊(きい)(のかみ)父子へ訴訟と申して謀反を企てた。城郭を構えて朝敵となった。同12月13日に群勢(軍勢)守護の手の者が当寺(楞厳寺)に打入り、悉く資材を奪取して、19日まで留まりその後退いた。翌年6月28日に位田城へ向った。国中の守護勢は申すに及ばず多くの侍どもは兵器を調えて思い思いに出発した。同時にたずさえた武具類は多く人の目を引いた。豊前守父子は多数の協力を得るために、但馬・攝津・備州の武士たち、ほぼ十三ヶ国の群勢(軍勢)を城へ取寄せた。その上で7月3日に城を火攻めにしたが落城しなかった。攻撃側はかえって(きず)()う者多数、討ち死にした者が数十人あった。その後、色々と計略や攻撃があったが、城の衆は(いた)まず、同11年10月(つい)にそれぞれの自宅へ帰った。

(二)延徳二年7月3日、此の丹波に大合戦(かっせん)あり。物部豊前守を大将として位田城を攻めた。城は七ヶ所あり、此の城は(そと)(しろ)である。攻撃側は百余人討たれて戦死、負傷者は五百余人あった。守備側は五、六人討死、此の内の須知源三弟戦死。

 両資料とも共通の事実を述べて城側の勝利を伝えています。

 次いで(一)では攻撃側に非常に大量の軍勢の派遣が目立ちます。

(二)では守備側も広範囲(位田城が外城、外城七ヶ所)の連携も目立ちます。    

それで攻防は位田城を中心としていますが、広範囲の地域でおこなわれたと思われます。その例として上延町の堂の奥にある東光院(真言宗)の史料では、延徳二年6月8日に木曽殿神社(綾部高等学校の直ぐ北隣)が位田の乱で延焼したと記されています。また位田守備の一揆側は8月には、前年に落とされていた須知城(現京都府京丹波町市ヶ森)を奪回しています。

このようにして丹波の中央部では一城一郭を争奪する戦いが続いたようです。

そして延徳四年(1492)9月5日、北野社家へ次のような注進がありました。

「丹波国牢人没落す。(こと)に大将分の荻野十郎左衛門尉(じゅうろうさえもんじょう)父その(ほか)随分の者共(ものども)討死(うちじに)

(くび)八つ(のぼ)ると云々。」

これが四年にわたり畿内最強の守護軍団に抵抗した「位田の乱」を含む丹波の国一揆の崩壊を告げる最初の情報でありました。

私は、この高城山の麓に生活していて時々この乱のことを思います。またこの付近には荻野、大槻の姓が多くありますが、その昔の何かの豪族とのつながりがあるのでしょうか。

「参考文献」

日本国王と土民    今谷 明著  平成4年2月11日発行 集英社日本の歴史H

 中世山城と明智光秀の丹波平定  綾部史談会々長 梅原三郎著  昭和61年7月1日発行 日東テクニカルレポート23号

綾部市史 資料編 綾部市史編纂委員会  昭和52年1月20日発行  上 巻 綾部市史編纂委員会 昭和51年3月10日発行