綾部の文化財シリーズ(第16回)
阿須々岐神社
    綾部史談会々員・志賀郷町:真宮 均氏 
 
阿須々岐神社拝殿 
本殿は京都府登録文化財
 社名
 阿須々岐神社は綾部市金河内町東谷にあり,中世以前は「吾雀宮」、近世には「金宮大明神」又は「一宮大明神」「金宮」、近代になって「阿須々岐神社」と改名されました。
 延喜式神名帳に記された何鹿郡十二座の式内社の一に名を連ね、明治2年には久美浜県庁より式内社の指定を受けましたが、明治12年篠田神社との式内社争いにより指定を取り消され現在に至っています。内久井町・金河内町・坊口町・仁和町の総社です。

祭神
 祭神は天御中主神・高産霊神・神産霊神としていますが、何鹿郡誌にはこの三神のほかに道主貴神を加え、志賀郷村誌には市杵比売命となっています。

創立
 創立は不詳ですが、和銅六年(713)に改祭したという棟札の記名から、奈良時代の初期にはこの地に祭られていたことになります。

(けいうん)
 三代実録の元慶三年(879)11月9日の条に「九日申子 丹波国言上 慶雲見管何鹿郡阿須々岐神社」とあります。
 慶雲とは治部式(じぶしき)によると「(けむり)の如くして烟に非ず、雲の如くして雲に非ず、大瑞なり」とあるから、天下の慶事として国司より言上されたものでしょう。

 
 

()(すすき)
 中世以前はこの地(旧志賀郷村)を吾雀庄といい、この宮を吾雀宮といいました。このことはこの宮に吾雀庄の守護神が祭られていたことを意味し、また、大坂峠を越えた隣の別所町の(がん)成寺(じょうじ)が吾雀庄の祈願寺であったことと併せ、この両地が吾雀庄の二大霊地であったことを思わせます。

本殿(京都府登録文化財)
 
京都府登録文化財の
阿須々岐神社本殿
 
 
 
京都府登録文化財の
摂社大川神社本殿
 現在の本殿の棟札には享保六年(1721)に再建と記されており、一間社流造、杮葺(こけらぶき)、大型の建物で、八尺の間口があります。改修に西方村と坊河内村の大工の名が見られます。又、本殿右側に摂社大川神社本殿(京都府登録文化財)があります。やや小さな一間社流造で屋根は厚い長板葺きで直線的な鋭い屋根の形は古めかしさを感じさせます。棟札には福知山住人半兵衛や坊子河内の大工の名が記されています。又、文化二年(1805)に縁回りの修理が行われたことが縁板裏の墨書銘からわかります。 
例祭
 
百射の神事 
 
 
 行列を作って境内に練りこみ
 阿須々岐神社の祭礼は毎年10月の第2日曜日に行われ、祭礼芸能が奉納されます。又、祭礼に先立ちは(もも)()の神事が行われます。百射の神事とは氏子の中から選ばれた12人の射手が的場から28メートル離れた的に矢を放つもので、最後に直径約10センチメートルの金的に当たったのを合図に氏子が上幟などを手にし、行列を作って境内に練りこみ、祭礼が始まります。




祭礼芸能(府登録無形民俗文化財)
 
平成20年 仁和町の露払・太刀振 
 祭礼にはさまざまな芸能が奉納され,町区ごとに次のような持芸があります。
内久井町  太刀振り 
坊口町    花の踊り・能・狂言 
金河内町   太刀振り・狂言・太鼓 
仁和町  露払・太刀振 

 昔は三年毎のマツリドシに全ての芸能を一日に奉納していましたが、今は毎年一町ごとに輪番で持芸を奉納します。

 この多彩な芸能がいつどのようにして始まったか、確かなことはわかりませんが坊口町には能面が伝えられ、その内の翁面(おきなめん)父尉(ちちのじょう)の二面は南北朝時代の古面であり、能より一段と古い猿楽が行われていたことを思わせます。いま行なわれている狂言は「御年貢(みねぐ)」と呼ぶ曲で、子供三人で演じます。何れも中世的な多彩な芸能を伝えています。年々子供の数が少なくなり、その継続が危ぶまれています。

茗荷(みょうが)祭りの神事 
 
 茗荷田からのお刈上げ神事
 阿須々岐神社の茗荷は志賀の七不思議の一つに数えられ毎年、2月3日にお刈上げの神事が行なわれます。(旧暦の明治初年までは1月3日)境内左の谷の約三坪のお宝田で、早稲(わせ)中稲(なかて)晩稲(おくて)に区切られた箇所から神官が一本ずつ茗荷を刈上げ、その姿、形によりその年の稲作早稲・中稲・晩稲の豊凶を占うという神事です。
 
阿須々岐神社御宝附 


 豊凶の占い
 お刈上された早稲の茗荷は太くて長いときは早稲の稲作は豊作、中稲の茗荷が小さくすくんでいれば中稲は不作、又、茗荷が曲がっていれば風害・水害の恐れあり、色があせていれば虫害ありというように、その年の早稲、中稲、晩稲毎に稲作の豊凶を占うものです。左のお札は平成23年に参拝者に配られた「御宝附」と呼ばれる稲作の占いの結果です
備考 
白=白米   丑(北東)から未(南西) 
子(北)から午(南) 
丑(北東)から未(南西) 
 従って早稲、中稲、晩稲は吉ですが、
早稲が一番良いとなっております。
 七不思議伝説では1月3日に茗荷が上がるという奇瑞は里の神の霊験(神のお告げ)によるものとされ、里の人はこの有り難い霊験をもとに、その年に植える田植えの時期や品種を決める参考にしてきました。

昔の参拝者
 昔は天気予報もなく、稲作の品種も少なく、化学肥料も農薬もない全くの自然の天候まかせの稲作り」でしたから、この神の霊験は有り難いものでした。従って年が改まると、その年の米作り期待をこめて多くの里人が参拝し、遠くは丹後方面からも峠を越えてお参りに来ました。

 今も拝殿右側には丹後道といわれる峠越え人のための参道が残っています。又、金河内の家々は民宿で賑わったといい伝えられています。

七不思議伝説の由来
 志賀の七不思議伝説によりますと、今から千四百年前、麻呂子親王(聖徳太子の異母兄弟、別名金丸親王)は勅令を受けて大江山の悪鬼を退治され、その記念に志賀の五社に藤・柿・茗荷・筍・萩を植えられ、それからというもの、これらが正月というのに花が咲き、芽を出し、実が実りという奇瑞が続き、今もお刈上げの神事が行なわれています。(新暦になってからは2月3日=茗荷祭、2月4日=筍祭) 
七不思議伝説の起源
 現在この地区には数多くの古文書「志賀の七不思議縁起」が残っています。これら縁起書から類推すると、この伝説は室町時代の末にはその原形ができていたと思われます。六百年もの間,絶えることなく、語り継がれ、神事が行なわれてきたことは、驚くべきことです。
文化財環境保全地区
 
綾部の古木名木百選の一つ
「モミの木」樹齢220年
 
  阿須々岐神社の境内には古木が群生し昭和62年より境内の5千平方メートルが京都府文化財環境保全地区に指定されています。樹種は主にスギとモミで幹集周が3メートルを越えるスギが8本、モミが4本あり、樹高は何れも30メートルを越えています。その内モミの木(幹周4.28メートル、樹高39メートル、推定樹齢220年以上)とスギの木(幹周4.14メートル、樹高34メートル、推定樹齢340年以上)の2本は「綾部の古木・名木百選」に指定されています。
その周辺
 金峰山
 参道の桜並木から見ると、阿須々岐神社の森の背後に美しい正三角形の山を目にすることができます。金峰山といい、標高350メートル。毎年4月22日には宮総代がこの山の山頂付近に登り、榊をいただいてきて神前にお供えします。太古の昔この山が御神体であった時の名残でしょうか。因みに東八田の弥仙山の金峰神社と真東、真西の位置関係にあります。高さこそ違え何れも姿のよい正三角形山に「金峰」の名をつけたのはどんな意味があるのでしょうか。

山尾古墳
 阿須々岐神社の西側に山尾古墳群といわれる六世紀末の古墳が連なっています。この中で最西の山尾古墳は(だん)()塚式(つかしき)古墳(こふん)といわれる薄葬令(はくそうれい)(646)以降の古墳で、正面に三段のテラスを設けピラミッド型の形をしています。この型の古墳を造成できるのは天皇か朝廷に繋がりのある人に限られて(おさ)部首(かべのおびと)()(つぐ)の墓ではないかと論議されています。現在、西日本では段ノ塚式古墳は十基余りしか確認されていません。
「備考」刑部首夏継=清和天皇の頃の人で丹波の刑部の首長であった。貞観六年(864)豊階宿禰の姓を賜る。(三代実録) 段ノ塚式古墳=天皇陵は八角錐形、臣下は四角錐形
金という字
 
阿須々岐神社は元金宮大名神、金ノ宮といい、地名は金河内町、又は金口、背後の山は金峰山といいます。七不思議伝説の主人公は金丸親王・金里宰相。金の字が多い。又、先祖が鍛冶屋であったと伝える家が十軒ほどあります。昔は金とは鉄のこと。かっては鉄の加工と関係があった土地柄を思わせます。