綾部の文化財シリーズ(第15回)
可牟奈備神社 −大宮一休大明神ー   綾部史談会副会長・十倉志茂町   川端二三三郎 氏
 
 可牟奈備神社本殿
現社殿は宝暦3年上棟 (上棟木槌銘)
 一 式内社(式社)
 古代の郡郷を概観しようとする時、その地域的指標としてはまず古墳の分布があり、次いで式内社の存在がある。式内社とは延喜五年(927)に撰進された延喜式の神名帳に登載された神社のことで、官庫または諸国の国庫から幣帛を受ける高い社格を有した神社である。丹波国六郡全体では大小71座を数え、そのうち何鹿郡は12座(すべて小座 うち2座は現福知山市域に属する)を占める。

 何鹿郡内における式内社の分布についてみれば、古墳の分布と同様に郡西部が圧倒的に多い。ただし、近代の神社名の比定については明治10年代に各地で論争が起こり、政府が指定を取り消したものもある(論社)。

二 河牟奈備神社の記録
 河牟奈備神社は上林谷に立地したとされる賀美・拝師両郷内で唯一の式内社である。明治16年に京都府がまとめた「神社明細帳」によれば、和銅二年(709)に創建されたと伝え、平成21年10月に創建1300年祭を挙行した。

祭神は天下春命(アマノシタハルノミコト)。
 思兼神の御子で、天孫降臨に随従して天下り給うた神、武蔵秩父の国造等の祖神とされる。御兄天上春命(アマノウワバルノミコト)とともに東国に多く祭祀し、近隣には祭祀の例がない。

 社地は十倉名畑町古氣良に位置するが、氏子は西北方の井根町を宮元とし、東南方の忠町および東方の睦合町念道の一部と、三方に分かれている。いずれの集落の中心部からも一キロメートル近く離れた山裾にある。

 神社名は後背の河牟奈備山に由来したものとするが、「カムナビ」は神南備・甘南備などとも書き、本来は神の鎮座する山や森をあらわす古語である。物部の神浪山も同様の語義と思われる

 『千載集』には、大甞会(ダイジョウエ 天皇が即位後初めて行う新嘗祭)の際に主基(スキ)方が丹波国神南備山を詠める歌として、つぎの二首が掲載されている

  長元五年(1032)

  ときはなる かみなび山の 榊葉を さしてぞいのる よろずよのため   藤原義忠朝臣

    寿永元年(1182)

  みしめゆふ かたにとりかけ 神なびの 山のさかきを かざしにぞする      権中納言兼光

  ちなみに、後年のことであるが『夫木抄』に稲村山として登載されている主基方の歌は右の井根村を指すものとされている。

  正徳三年(1713)

    かくばかり ゆたけき年に 稲村の 山田守をば 又も逢ひきや

三 一の宮の伝承 
 
 篇額  河牟奈備神社蔵

 平安後期から鎌倉時代にかけて、国ごとに国の守護神を定めて「一の宮」とする風が広がり、やがてその風潮は郡・郷・莊にも及んだ(総鎮守)。他方では国司が域内の神社を巡拝する代わりに一か所に集めて祀る総社の仕組みも盛んとなった。

 丹波国の一の宮は亀岡市千歳町の出雲神社で、総社も国府近くに存在していたものと思われる。各郷・莊の一の宮については、現存の一の宮あるいは一宮(いっきゅう)と名乗る神社名などを通してある程度成立期の推定が可能である。

 何鹿郡内にも各地に一の宮・二の宮などがあるが、成立期が中世以前にさかのぼるものと近世以後の例を挙げてみよう。

 小畑には熊野大権現を祀る神社が三社あり、一〜三の宮の通称が付されている。
 一ノ宮大明神  鍛冶屋村    右者熊野三社之内本宮権現のなかれと申伝候 然共何ニてもゑんぎハ無御座候

 二ノ宮大明神  中村


 三ノ宮大明神 小西村

 此神社者昔小畑庄に熊野表三山奉     遷三社其一座と申伝候  (「社堂御改帳」抄録) 

小畑(小幡)荘は平安時代にまでさかのぼる荘園(皇嘉門院領)であるが、その後の伝領についてはよく分からず、地元でも「えんぎ(縁起)ハ無御座候」と記している。しかし、この地域に熊野三山を本所とする荘園が存在したことは確かで、今日の「小畑祭」はその伝統を継ぐものとされている。

 私市村の佐須賀神社(現福知山市域に鎮座)は式内社で、私市郷(荘)全域を氏子圏としていた時代もあったと思われるが、加茂別雷社の荘園となり、域内の報恩寺村に加茂神社が勧請されると勢威を失い、江戸時代には私市村の産神としての地位に止まっている。この神社を一の宮として村内に鎮座する神社の序列化が行われているが、これは一の宮制の近世版と言ってもよい
 一ノ宮  佐須賀神社
 二ノ宮  八幡
 三ノ宮  雷神天満宮
 四ノ宮  清所明神  同所
 五ノ宮  新宮  佐須賀神社境内
       愛宕大権現  在中  (『丹波志』)

 河牟奈備神社の通称は大宮である。江戸中期の正徳年間に社域周辺で起こった山論記録や代官(岩本家)文書には「大宮一休大明神」の称号が用いられている。さらに、天保二年の神号篇額(後述)には「大宮一宮大明神」とある。一休は一宮が転化したものと推定できるが、この神社を大宮あるいは一の宮とする氏子圏の広がりについては拠るべき文献を欠く。

四 氏子圏の縮小 
 この神社の最大の謎は、十倉・井根・念道三か村の接点に位置するが、社地は氏子圏ではない十倉村に属していることである。産土神が氏子圏外に鎭座するという矛盾がどうして起こったのか。

 これを理解するためには、まず神社周辺の地勢について説明する必要がある。この地域では上林川の流れが中山の山塊にはばまれて南へ大きく蛇行し、湾曲部一帯には沃土が堆積し、流域有数の穀倉地を形成している。社域近くには古墳群(五基)があり、うち一基の発掘調査によって古墳時代初期の石敷きの埋葬施設が確認され、縄文前期の土器片も隋伴して出土している。

 このように生産力に富めばこそ、中・下流域における中心的位置を占めてきたはずであるが、ここは洪水の常襲地でもある。集落が洪水を避けて移動すると、神社だけが丘陵地に取り残される結果となる。同時に、各集落が生活圏ごとに氏神を祀るようになると、大宮はもはや中・下流域全体の産土神としての実体を失う。

 当社古老の口碑によれば上流の睦合町引地から山家境までがすべて氏子であったと伝える(口上林村誌)。この地域はほぼかっての上林荘下村に当たるが、室町後期、ここにつぎのような神社が創建されて行く(各村誌)。

 八幡宮:武吉 文亀二年(1502)、壱鞍神社:十倉 文亀二年(1502)、十二社神社:佃 天文一三年(1544)以前葛礼本神社:浅原 弘治二年(1556)

 同じ上林川の上流域、すなわち上林荘上村に鎮座する坂尾呂神社や室尾谷神社・西屋八幡宮などがいずれも平安・鎌倉期創建の由緒を有するのに比べ、右の四社は際だって新しい。このことをどのように理解すればよいのか。

 上林荘は平安後期の文献に初めて荘名が見える。室町時代には上村・下村に分かれているが、それぞれが相国寺領・仁木殿領に二分されている。この時代に荘内で一の宮制が採り入れられたとすれば、当然河牟奈備神社を一の宮として、上村の諸社を含めた序列化が行われたと考えられる。

 ところが、上村地域では地形的にまとまりのある本谷上流域・畑口川流域・本谷中流域それぞれでの村結合がいち早く進み、前述の神社を氏神とする氏子圏を形成して行った。かたや下村地域では、中山山塊周辺の村々が河牟奈備神社を大宮とする氏子圏を長く維持して来たが、室町後期にいたって村結合が進むと、独自の氏神を勧請する動きが顕著となったと考えてはどうだろうか。

十倉村は下流域最大の村で、武吉村と同じ八幡宮を祀っていた時代もあったが、文亀二年、儀式をめぐって両村間に紛争が生じ、土豪渡辺氏の主導によって別に氏神を祀ることになったと言う。壱鞍神社のおこりは応永元年(1394)、十倉山のほとりに流れ着いた神像を祀り込んだことによると伝えるが、右の紛争後に現在地に遷座して、改めて十倉村の氏神となった。

 このように一六世紀以前の段階ですでに大宮との関係が希薄となり、加えて天正年間(1585ごろ)の社域周辺における境界争論、および正徳三年の山論が氏子圏からの離脱に追い打ちをかける結果となったのではないかと考える。

  摂社 阿上神社・吉田神社
   
摂社「阿上社」で下の石碑は
「綾部市指定文化財」の
平安時代の市内最古の
金石文です
昭和50年綾部市指定文化財となった
綾部市最古の金石文
  当社は平安後期、永久二年(1114)銘の法華経碑を小祠として安置していることでも有名である。

    阿上社

  (梵字)妙法蓮華経安置所
  永久二年八月十四日 僧院暹記之

  右の阿上社碑は、銘文から平安・鎌倉期に盛んであった経塚の標識と見られる。経塚築造は末法思想のひろがりの中で、経典の保存からさらには極楽往生を祈願して行われたもので、高所で発見される場合が多い。氏子圏内では井根町の日円寺近くの高台で、経塚に埋納されていたと思われる一字一石経が発掘されている

 阿上社については上林谷では祭祀例がなく、山並みを隔てた和知本庄の阿上三所(アカミサンショ)神社などとの関わりを検討してみる必要がある。 

 

 
     
明治9年に描かれた
「河牟奈備神社」
(京都府総合資料館所蔵)
 
平成21年10月12日の
創建1300年祭の
鳥居のお祓いです
 
天保二年に神祇道管領で
あった吉田神社宮司ト部良長が
河牟奈備神社の社号篇額を揮毫
したもの。篇額の裏面の年号も
はっきり見える
 

 阿上社とならび摂社として祀られている吉田神社は京都市上京区神楽岡に鎮座する吉田神社の分祠で、天保二年に神祇道管領であった吉田神社宮司ト部良長が河牟奈備神社の社号篇額を揮毫している。

 付記
  天下春命の由来については高津八幡宮塩見有紀宮司の御教示を得た。謝意を表したい。