綾部の文化財シリーズ(第十四回)

 
 高倉神社大鳥居から拝殿をのぞむ

高倉神社

一.鎮座地

 綾部市高倉町奥地四五

 城山のふもと、高倉の集落の一番奥まったところに東南東を正中として鎮座。

 

二.由緒と御祭神

 時は十二世紀後半、平安時代末期、約百年続いた藤原氏の摂関政治は終わり、院政が始まって上皇が法皇として、院庁で政務を執行される時代となった。各地には武士団を擁した荘園が発達し、徐々に武士の時代になりつつあった。

 その時代はまさに平家全盛の世で、平清盛は当時既に太政大臣の職こそ辞していたものの、その専横ぶりはますます激しいものになり,治承三年(一一七九)後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し,翌四年は高倉天皇(以仁王の異母兄弟)を退位に追い込み,自らの孫を安徳天皇として即位させた。

 その頃源氏の有力者源三位頼政は、平家一族のあまりにも皇室をないがしろにする挙動を見かね、後白川法皇の第二皇子として将来を期待されていた以仁王を中心にして挙兵する計画を立て、それに呼応した以仁王は治承四年、諸国の源氏の棟梁に平家追討の令旨を発し、自らも頼政を総大将として平家追討の兵を挙げられた。しかし、頼政方に利あらず、宇治の合戦で平家方に敗北、頼政は平等院にて自刃、以仁王はそこを逃れ、南都にて軍を再興しようと数十騎の側近とともに南進された。丁度井出の渡し(木津川市山城町)付近まで来たとき、追撃してきた平家軍の猛攻撃を受け、一行は奮闘むなしく討ち死にとなった。その時、かねてより覚悟して以仁王に付き添っていた藤原俊秀(別説須藤俊秀ともいう)という若侍が、影武者として王に替わって矢面に立ち猛烈に奮戦して遂にあえなく最期を遂げた。平家軍は以仁王を討ち取ったりとしてそこを悠々引き上げたので、以仁王は隠れていた藪陰から現れ、秘かに大槻光頼、渡辺利久等十数騎の家来とともに摂津、丹波と逃れ、頼政の所領地であった吉美郷有岡目指して十日余りの旅をされた。何鹿郡綾部に着かれたあと、由良川を渡り吉美の里村に至られたのは治承四年の五月下旬か六月初め、農作業の最中である。里人たちは、都からの高貴な方の到着を喜び、笛、太鼓で田楽踊りを舞い、今も伝わる「ひやそ踊り」で以仁王を慰めたという。

 しかし、以仁王の矢傷は次第に悪化し、同年六月九日「後世、庶民の腹痛の悩みを吾代って救わん」という言葉を残して御歳二十九歳で昇天された。

 翌年養和元年(一一八一)九月九日、有岡村の有力者杉山政国の尽力もあって、以仁王神霊を奥谷の森、高倉に移し奉り、ここに高倉神社が創建された

 境内神社  御祭神

 皇大神宮  天照皇大御神

 伊邪那岐神社 伊邪那岐大神

        伊邪那美大神

 大地主神社  大地主命

 八坂神社   素盞鳴命

 金毘羅神社  大物主命 

 稲荷神社   宇迦之御魂大神

 天満宮    菅原道真公

 十二士神社  以仁王に従った十二士

 

三.御神徳(ごりやく)

 腹痛(はらいた)救護、胃腸病の快癒

 万病平癒、五穀豊穣等

 

四.年間行事

 定日の祈年祭、新穀感謝祭、大祓祭り

 の他に次の例大祭がある。

(一)   土用の丑祭

  七月、土用に入って最初の丑の日。

 古来から「はらいたの神様」として近郊はもとより、遠く京都、大阪周辺からも深夜から早朝にかけてお参りがあり、夏の祭りとして食中毒などの予防にもご利益があるとして、多数の参詣者があった。現在は往時ほどでないにしても、地域の公民館、諸団体の「夏祭り」が併せて開催されることもあって、参拝の人出は多い。

  その祭の「はらわた餅」と裏山に自生する「五葉の笹」とは参詣者にはらいた予防のまじないとして人気がある。

(二)   秋の例大祭

  神社から三・五キロメートル南、里町にある里宮高倉神社の付近と舞堂が御旅所で、秋の例大祭には四百貫の総欅造りの神輿を担いで片道一時間半の御旅を行う。行列は吉美地区各町区の神社の御幣、幡、および子供の竿幡など総勢二百人を超え、神輿の後には「日の神さん」という稚児の扮する「あらひと神」一人が宮司と警護役を従えて車でしずしずと進むという慣わしがある。前述の「ひやそ踊り」もその際、本宮と御旅所で奉納される。吉美地区旧町区のすべてを巡るこの行列は、高倉神社の一つの特色となっている。

 市立病院の南西方向の職員駐車場の中央辺りに、面積で約一畝、高さで約六メートル大きな六種類の樹木を擁する丘「王塚」(大塚ともいう)が高倉神社のゆかりの地で、この「王塚」は以仁王が由良川を渡られる祭、一時とどまれた処とも、亡くなられた処ともいうが、そこの祠は例大祭当日には御祭神を偲んで祭礼が行われる。

 

五.主な建築物および文化財

(一)   本殿 十四平米

 明治四十三年(一九一0)建立、総檜 

 の一般的な流れ造りで拝殿との均衡を考え一段と高く造られている。

(二)   拝殿 四十平米

 延享三年(一七四六)本殿として建立された欅、檜造りの建物で,これを明治四十三年(一九一0)拝殿に改装したもの。

  なお、この拝殿は四方に欅の円柱をもち欄間,唐破風の正面などに精緻な彫刻が施され、優美な趣を持っているところから平成十三年に京都府有形文化財として登録された。

 
府登録有形文化財の拝殿 

  また、この拝殿と本殿は礎石間で約

 十米離れた位置に造られ、その空間を透かし塀で取り囲んで、いわゆる垣内を構成しており、古代からの神社の建物配置の標準形が残っているものといえる。例大祭の祭はここで祭礼が行われ、参拝者は拝殿もしくは菱垣の外側から、昔ながらの祭礼をつぶさに観覧することができる。

 
見事な拝殿の彫刻と菱垣と本殿 

 

(三)   その他の建物

 神輿蔵、社務所、新社務所など

  明治の頃宮司の住居を改造した社務

所には約二五平米の絵馬堂が付属して

おり、奉納された絵馬一幅のみになっ

たものの、明治から昭和にかけて奉納

された俳句の奉納額は四幅、約四百首

に及ぶ句が掲げられている。

 これは明治の大改修の時代から神社を中心に、吉美地区だけでなく近郊からも俳句の同好者が多数集まり,吟行会などが催されていたことを示している。その大部分は風化によって判読が難しくなっているが、目下綾部史談会関係者によって解読作業が進められている。

 

 

(四)   その他の文化財

  延享三年の銘のある棟札一枚

  明治四三年本殿を拝殿に改装した際,

 旧神殿の棟木の中から発見された高さ一五三・六センチメートル、幅二三・五センチメートル、厚さ二・八センチメートルの棟札としてはかなり大きな檜の一枚板で、元文年間(一七三六頃)焼失した神殿を再建すべく、焼失から僅か七年後の寛保三年(一七四三)六月に木切初めを行い、三年後の延享三年六月に遷宮したことが記してあり、当時の吉美郷は六ヶ村(現在の町区)からそれぞれ銀貨に換算する寄付を募ったこと、その村の庄屋、年寄のそれぞれの氏名が墨で明瞭に記入されている。現在から遡れば十世代前の村人たちの再建への意気込みが感じられる。興味深いのは里村(里町)小呂村(小呂町)にそれぞれ「山家領」「十倉領」に別々に庄屋、年寄の名があるにもかかわらず村としては一本で寄付額が記入されていること、この時代領主や寺院等の寄進に頼らず、約六年間で総計八貫九二0匁の銀(現在の貨幣価値に換算して約二千五百万円と推定)を集めることができた吉美郷の豊かさと、信仰心の厚さが窺えるところである。

この棟札は拝殿の建物とともに平成一三年京都府有形文化財として登録されている。
写真左:京都府登録有形文化財の棟札

 

(五)ひやそ踊り

   
 秋の例大祭・本殿での祭礼

秋の例大祭での拝殿前での
「ひやそ踊り」
 

  小学生二四人が以仁王ゆかりの横笛と腰太鼓の音にあわせ、編竹を胸に下げて、笛を中心に緩急自在に円を描いて踊る田楽踊りである。これは一説に以仁王のお傷を「癒そう、癒そう」と

いってはやしたのが踊りの名となったといわれる。

 この踊りは綾部市指定無形民俗文化

財となっている。

(五)   境内に残る四本の銘木

 
綾部の古木・名木100選の一つ
高倉神社の御神木(大杉)
樹高三三メートル、
幹周四・九メートル
 

(ア)   御神木の大杉 樹高三三メートル、幹周四・九メートル、推定樹齢六00年

(イ)   奥宮後方の夫婦杉 樹高四二メートルと三六メートル、幹周四・九メートルと四・七メートル

(ウ)境内東南隅に茂るシラカシの老 

   木 樹高十二メートル、幹周五・三メートル

いずれも綾部市の古木・名木100選

に指定されている。

参考文献

 「高倉の宮以仁王を誠し奉る」

  高倉神社奉賽会 村上義信 編集

 「以仁王と嵯峨孫王ゆかりの人々」

          鎌村善子 著

「吉美村誌」    吉美公民館 編

     高倉神社宮司 四方幸則