「特別寄稿」 幕末・明治初期の丹波・丹後の三大画人の一人!     HP:綾部の文化財
画僧 黙知軒光研の足跡  綾部史談会々員 真宮 均 

 黙知軒光研上人は号を「黙知軒」名前を「光研」といいます。出身は大江町(こお)(もり)仲町平岡(ひらおか)弥兵(やへい)()の次男で、寛政四年(1792)の生まれです。

 宝満寺中興第六世律厳上人(1741~1820)の弟子となり、早くより京都に上って永観堂の玉翁について墨絵の勉強をし、丹波に(かえ)えってからは綾部高津八幡宮の究竟院(くきょういん)に寄宿して綾部藩主九鬼隆備(くきたかとも)公の墨絵の指南役をしていました。文学にも造詣深く、書道にも堪能で万葉調の和歌を残しておられます。

 その後、丹後大宮町岩屋寺の住職となり、寺に残る「大江山繪傳上下」をもとに「大江山千丈ヶ巖酒天童子由来」という本を書きました。この本は桝屋宇右衛門の依頼により由来を書きしるしたとあります。宇右衛門は大江町仏性寺にある鬼ヶ茶屋の主人で、鬼ヶ茶屋の鬼退治の衝立(ついたて)も黙知軒の絵とされています。

 その後、黙知軒は綾部市別所町願成寺の住職となり、明治二年(1869)9月8日77歳で願成寺で遷化されました。黙知軒の石碑は宝満寺、願成寺、岩屋寺の三ヶ寺にあります。

 「幕末、明治初期に丹波、丹後に三大画家あり。素后、貫山、黙知軒なり」と日本画名辞典に記されております。

[平成18年10月宝満寺十三世松本龍雄記]一部補正

[注]

・黙知軒は京都永観堂の玉翁に指事、山科来迎寺の玉燐の流れを汲む画僧で、墨竹画を持って知られる(綾部町史)

・黙知軒に指導を受けた綾部藩主九鬼隆備は画号を「南山」と号し、墨竹を巧みに描く。

・「大江山繪傳上下」は岩屋寺蔵。一巻の長さが十六メートルに及ぶ長大な絵巻物。古法眼本の流れを汲むもので、江戸時代前期のものとされる。(作者不詳)彩色が鮮やかで精巧な筆致、鬼が人間に描かれている。鬼の持つ刀は中国の青龍刀に似ている。

[関係寺院]

朝日山岩屋寺: 大宮町谷内(元本城山)高野山真言宗、行基上人開基、本尊不動明王 
神宮山願成寺: 綾部市別所町(昭和32年廃寺)高野山真言宗、空也上人開基、本尊阿弥陀如来 
・吉祥山宝満寺: 綾部市西方町、高野山真言宗、空也上人開基、本尊毘沙門天 
・御山究竟院: 綾部市高津町(明治2年廃寺) 高野山真言宗 
 宝満寺(ご本尊は毘沙門天)
   
 綾部市西方町の吉祥山宝満寺、真言宗
・あやべ西国観音霊場第22番札所
 
 四季の図の一部、宝満寺 黙知軒
七十三歳の時の竹の画・寺宝
  四季の図・宝満寺 七十三歳  
般若恵風 能払災
妄塵除却 吉祥開
多聞深奥 華蔵界
萬有欣求 宝洲台

那寿和座(なすわざ)は
華のならす種々の
道はこころにまかす辨らなる

乙丑冬応需求 七十三翁 黙知軒 印
 
能=よく
多聞=毘沙門天
華蔵界=極楽浄土
欣求=喜びを求める

宝洲台=仏の妙地に(たとえ)
に四季の図の文章を掲載します。
内容は右の表に活字体で説明を加えております
 

  

    

 黙知軒光研上人経歴

一歳、寛政四年(1792)生誕河守、平岡弥平治次男
同年長谷川素后(1792)生誕岡安、 塩尻家次男、後、東本町の長谷川家の養子となる。(三大画人の一人)
宝満寺宿僧            =年不詳
宝満寺律厳上人の弟子     =年不詳
京都永観堂 玉翁に墨画師事 =年不詳
大宮 岩屋寺住職        =年不詳
二八歳、文政三年(1820)師匠宝満寺六世律厳上人入寂
三十歳、文政五年(1822)安藤貫山生誕、綾部上町(三大画人の一人)
三一歳、文政六年(1823)
沢辺北溟蟄居   著述・子弟訓育
四十歳、天保二年(1831)和歌三首、短冊
四六歳、天保九年(1838)初春初老の祝 句会(七福神)=赤井氏蔵(掛軸、次頁掲載)
五三歳、弘化二年(1845)大江山千丈ヶ嶽酒顛童子由来(枡屋宇右衛門の依頼による)
五五歳、弘化四年(1847)北溟八三祝詩文
五六歳、嘉永元年(1848)北溟八四祝詩文
六十歳、嘉永五年(1852)北溟八八祝詩文
六十一歳、嘉永六年(1853) 沢辺北溟入寂 享年八九歳

究竟院寄宿      =年・歳不祥
 綾部藩主九鬼隆備の墨画指南 =年・歳不祥
 六六歳、安政五年(1858)見聞独歩行  書写  書写本
 七二歳、元治元年(1864)「信 者道元 功徳母」        書
 七三歳、元治二年(1865)地鎮供作法=岩屋寺慣例行事、岩屋寺   書
 七三歳、元治二年(1865)四季の図 (竹の画)=宝満寺寺宝、襖絵 (九頁参照)
 七三歳、慶応元年(1865)漢詩=唐詩選・公子行 劉延芝 宝満寺寺宝 衝立書
 七三歳、慶応元年(1865)書=華蔵界、富足知、画=朱竹、他、究竟院、書画
 七三歳、慶応元年(1865)書画=漢詩・竹(木版)究竟院、 書画
 慶応元年(1865)三大画人の一人長谷川素后死去、享年七四歳、綾部浄光寺
 七五歳、慶応三年(1867) 画、墨竹
 七六歳、明治元年(1868)摩利支天像(本城山現主蜜乗光研)=村尾氏蔵、画
 七六歳、明治元年(1868)願成寺住職、(岩屋寺住職と兼務か?)
 七七歳、明治二年(1869) 墨竹画(掛軸)   =松宮氏蔵
 七七歳、明治二年(1868)松宮主の五五祝(七福神)=松宮氏蔵
 七七歳、明治二年(1868)遷化、墓石は願成寺、宝満寺、岩屋寺の三ヶ所にある。
 九月六日 法名傳燈大阿闓梨光研上人

その他の書画(年・歳不詳分)

・鬼退治襖絵=鬼ヶ茶屋=桝屋宇右衛門 

・大江山千岳ケ嶽酒呑童子

漢詩=唐詩選 非智勇之書 李白 掛軸=塩見氏蔵

・七福神の句画 村尾主の長寿祝=村尾氏蔵

・竹の墨画 掛軸(三幅)     =村尾氏蔵

・竹の墨画 掛軸 長左衛門  =村尾氏蔵

・不動明王画 掛軸       =村尾氏蔵

・三神軸物 天照皇太神宮・八幡大菩薩・ 春日大明神    =村尾氏蔵

   
初春初老の祝 句会(53歳、七福神)
赤井氏蔵
(注)掛軸上部をカットして掲載する
 
53歳の時、大江山繪傳上下の一部(詳細は8頁中段11行目参照)
この画から黙知軒は構想をえて「大江山千丈ヶ嶽酒顛童子由来」を書いた
 
 
 
松宮ぬし55の祝(七福神)
黙知軒77歳 (松宮氏所蔵)

七福神もちつきハたはれたる図なれとも
今のよの人 多ハ愛てこひ求むる輩あり
是ただ神と人とのさかひを忘れてなべて
世のめてたき祝のわさにとり交えたるんれハ
ふつににくむへきにもあらずと もとめの
まに画かきて 松宮仁右衛門ぬしの
五五の寿を祝するになむ
七福の神のささめき つくもちに
ちきりかそえむ 此ぬしの歳の数は
百歳もいや栄なむ孫ひこの まど
ゐもさハに ますかかみもち

 返歌

くもりなく みがけ心の鏡餅
これそ七さき神のまさなる

   七十七の叟黙知軒  印

 たはれ=戯れ  輩=ともがら ふつに=全く、すべて 五五の寿=五十五歳のお祝い さわ=多  さき=幸  七さき神=七福神  まさ=正

黙知軒の師「沢辺北溟」について
(舞鶴市教委 丹後資料 糸井文庫より)

 北溟は明和元年(1764)、宮津藩侍医の長子として生まれた。十歳にして宮津藩小林玄章に学び、天明七年(1787)には京都に出て、皆川淇園の門に入り、教えを受けた。寛政年間、宮津藩主より儒臣を命ぜられ、目付御用人を、御家老相談役を経て城代役まで昇進する。文政五年(1822)農民強訴事件の責を負い禁固謹慎を命ぜられ、以後、書屋に蟄居し、専ら読書著述と子弟の訓育につとめる。黙知軒はこの間、北溟のもとに通い、その薫陶を受けたものと思われる。

 嘉永五年(1822)89歳の長寿で死去する。自筆稿本著書八十巻あり。

幕末・明治初期の丹波・丹後の三大画人について
(綾部町史より) ・黙知軒光研(説明文通り)

長谷川(山家)素后寛政四年(1792)に綾部市岡安、塩尻家の次男として生まれ、後東本町の長谷川家の養子となる。絵は京都応挙派の画家、山口素殉に学ぶ。素后は酒を好み、性放逸世事を顧みず、故に隣人より疎んぜられたというが、画風は甚だ超俗的で秀でている。特に54歳の時、中風にかかり、右手が不自由になってからは左手で描いたが、その作風は大いにあがったといわれる。慶応元年74歳で死ぬまで浄光院門前に住み、今、浄光院境内に石碑が立っている。

安藤貫山文化五年(1808)に綾部市上町に生まれる。長谷川素后の弟子で、有間堂、米華翁香国の号があり、俳号は雲波といった。

 有名なものは、明治十七年田野の田中啓造の依頼によって、川合村の大原神社に奉納した天蚕飼育の大絵馬がある。(現在、グンゼ記念館に保管)

注)編集後記
 綾部史談会々員の真宮均氏より膨大な資料を提供頂いたが紙面の都合上、大部分を割愛せざるを得なく、残念ですが以上で終わらせて頂きます。
 
 
   

(注)事務局追記

10月16日に近い日曜日に催行される小畑祭りには三ノ宮神社の屋台がでる。その屋台の後部の龍の図は「長谷川素后、字は仲春が文久三年(1863)発亥(みずのえとい)その時、72歳にて描いて候」署名・落款が押捺してあります。