綾部の文化財シリーズ 第13回                          HP:綾部の文化財

あやべ西国観音霊場第三番札所 羅漢山・宝住寺(臨済宗妙心寺派)

 
 
 国道27号線から見る本堂、右、観音堂

1.・所在地
 京都府綾部市味方町井上寺48番地

【宝住寺の開創由緒】

宝住寺はその昔、当地にあった真言宗の井上寺がその始まりと考えられます。その後、明智光秀の丹波平定(天正八年・1580頃)に先立つ永正十五年(1518)、開祖・教山至道禅師の示寂の年を元に永正年間(1504〜1521)の開創と伝えられています。

開祖の寂後450年して、第十六世・義海和尚が境内に遷座した薬師如来坐像(綾部市重文)は、真言宗の開祖・弘法大師(空海)の弘めた薬師信仰に由来し、井上寺の本尊であったと考えられます。

その後、宝暦三年(1753)に隣刹の二ヶ寺とともに、綾部藩主九鬼隆季公の菩提寺・隆興寺(正保四年・1647開創)の末寺となり、明治二十一年(1888)には他の寺院とともに大本山妙心寺の直末[じきまつ]となりました。

堂宇は、元禄十二年(1699)に火災のため消失したものを恒雲梵沙和尚が再営。さらに寛政二年(1790)に観法祖伶和尚が再建立されました。しかし、二百十有余年の星霜を経て堂宇の損傷も激しく、平成十六年(2004)に義海和尚が本堂並びに諸堂を再建、不肖の代に庫裡を新築、駐車場を整備し、お檀家様の絶大なご協力を得て全山の景観を一新することができました。

【宝住寺の名の由来】

釈尊の滅後八百年を経て、現在のスリランカ(旧セイロン)に出た慶友尊者(ナンダミタラさま)は、その著『法住記[ほうじゅうき]』の中に、仏法を護持する十六人の羅漢さんの名を挙げています。

羅漢さんは民衆と共にある仏者です。詳しくは「阿羅漢[あらかん]」といい、「人々の供養を受ける資格のある人、尊敬に値する人、悟りを得た人」という意味で、仏教の究極的真理を会得した最高の聖者に付けられた名称です。

当山の「羅漢山」という山号と「宝住寺」という寺号は、恐らく慶友尊者の『法住記』に由来するものと考えられます。

羅漢さんには、十六、十八、五百とその数に種類がありますが、当山では十六羅漢に、『法住記』の著者である慶友尊者と、第一尊者の賓度羅跋羅堕闍尊者(ビンドラバラドバージャさま)の変身から生れた賓頭盧尊者(ビンズルさま)を加え、十八羅漢として裏庭の「大心字庭」にお祀りしています。

【歴代住職】

開山=教山至道禅師。永正十五年(1518)3月8日遷化。
二世=玉叟文玖禅師。元禄七年(1694
)9月8日遷化。
三世=慈山文陽禅師。元禄十年(1697
)2月5日遷化。
四世=玉山古玲禅師。元文五年(1741
)10月23日遷化。
五世=恒雲梵沙禅師。宝永二年(1705)9月23日遷化。元禄十二年(1699)に消失した本堂を再営した中興。
六世=玄性哲津禅師。享保十三年(1728)7月21日遷化。
七世=戒白智巌禅師。没年不詳12月14日遷化。
八世=観法祖伶禅師。享和元年(1801)9月6日遷化。越中(富山県)砺波市安川の薬勝寺(現・国泰寺派)の弟子。第五世梵沙和尚の再営した本堂を、寛政二年(1790)再建立し中興となる。その由来は旧本堂棟札背面に現存。
九世=穆洲恵文禅師。天保十年(1839)1月1日遷化。薩摩(鹿児島県)の人。文政六年(1823)観音堂を再建した。観音堂小屋裏に棟札が現存する。
十世=聖洲玄廓禅師。慶応二年(1866)5月7日遷化。舞鶴・東山寺十二世・天猷玄喝和尚の弟子。
十一世=大寰致敬禅師。明治三十一年(1898)3月27日遷化。俗姓は関氏。明治二年の入寺。
十二世=観月元孝禅師。大正十四年(1925)2月21日遷化。愛知県中島郡祖父町の人。旧姓は渡辺氏。滋賀県犬上郡高源寺の高森月應和尚の弟子となり高森氏に改姓。実弟は西福院第八世・a山祖璞和尚。
十三世=貫道宜徹禅師。昭和十四年(1939)10月16日遷化。島根県平田市西代町の人。旧姓は桑原氏。十二世・元孝和尚の弟子となり高森氏に改姓。旧石段を整備する。
十四世=文英正圓禅師。昭和十九年(1944)7月18日遷化。岐阜の人。姓は稲葉氏。太平洋戦争にて戦死。

十五世=大義豊昌禅師大和尚。平成19年5月5日遷化。愛媛県生れ。姓は佐野氏。昭和十九年(1944)入寺。三十八年(1963)本師・後藤伊山(伊山義豊)老師の後を受け京都法輪寺へ転住。十六世義海和尚とは伊山老師の下で法兄弟。
十六世=再住義海豊潤禅師大和尚。平成十七年(2005)7月24日遷化。愛媛県生れ。姓は河野氏。十五世大義和尚の懇請により、昭和三十八年(1963)、長野県諏訪郡原村・深叢寺より転住。薬師堂・臥牛庵・鐘楼などの他、平成十六年(2004)には現本堂を再建し閑栖となる。宝住寺の面目を一新した。

 
本堂と右手側が、観音堂です 
 
【観音堂の由来】

 境内の東にある観音堂は、第九世住職・穆洲恵文和尚[ぼくしゅうえぶん]の時代、文政六年(1823)年3月18日、観音様の縁日に再建されました。恵文和尚は鹿児島(薩摩)の出身で、再建のいきさつを観音堂再建銘(棟札)に詳しく書き記しておられます。

 それによれば、観音堂に祀る聖観音菩薩様は、六世紀の恵心僧都[えしんそうず]の作と伝えられ、何鹿郡の西国観音霊場の第四番として多くの参拝者があったそうです。現在は、綾部西国観音霊場の第三番です。

 
 見事な厨子の観世音菩薩立像



 ある日、宝住寺近くの家の子が疫病に罹[かか]り、失明するという不幸に見舞わ
れました。両親は名医を尋ね歩きましたが一向に治りません。二人は毎日泣いて暮らしておりました。

そこに観音様が現れておっしゃるには、「私の大悲の力で子供の眼を治して上げましょう」と。それから三日して、突然子供の眼が見えるようになりました。両親は飛び上がるほど驚き喜び、観音様の恵みに感謝しました。それから三年の間、両親は毎朝、観音堂にお参りしたということです。

このように霊験あらたかな観音様でしたが、長い年月を経てお堂は古く朽ちてゆきました。恵文和尚はそれを嘆き、檀家の人々と共に観音堂を再建することにしました。大工は福知山の今井小兵衛定永に、龍の彫刻は兵庫柏原の中井権次正貞に依頼しました。約六ヶ月で完成したことが記されています。

棟札の最後は、「大士道場(観音堂)の荘厳が円成し、皇風が永く扇ぎ、福寿増長し、幾世にも栄昌せんことを」と結ばれています。

 
薬師堂、堂内には綾部市
指定文化財の木造薬師如来
坐像が安置されています
 
【きゅうり封じの由来】

きゅうり封じの秘法は今から約千二百年前、真言宗の開祖・弘法大師が薬師如来の本願によって病魔・悪鬼をきゅうりに封じ込め、病を癒し自らの生命力を増進させ無病息災を得られたことが、その始まりと伝えられています。

宝住寺に伝わる薬師如来は、むかし当地にあった井上寺のご本尊と考えられ、平安時代末期(貞観時代)の作とされる等身大・ヒノキの一木造りで、綾部市の重要文化財にも指定されています。

約五百年前、宝住寺は禅宗の寺として新たに当地に開創され、薬師如来も当山の境外のお堂に大切に祀られてきました。当山の義海和尚はこの薬師如来を境内にご遷座し、薬師さんの縁日八日と、禅宗初祖・ダルマ大師(起き上がり小法師にたとえられる)の「七転八起」に因み、「起き上り薬師」として毎年7月8日に「きゅうり封じ」の秘法を勤修されることになりました。

四苦八苦の世の中ですが、どうぞ「起き上り薬師さま」を一心に念じ、無病息災・家内安全・交通安全など諸願成就の安心[あんじん]をお受けください。ご祈祷された方には、ダルマと護符[ごふ]を授与しております。

     
 薬師如来坐像、
像高九十.八センチ
 74日薬師堂より年に一度の御遷座  7月8日きゅうり封じ薬師大祭
   
いきいき羅漢クラブ・坐禅と朝がゆ会   本尊釈迦如来座像

 宝住寺薬師如来御和讃  義海和尚作詞

 帰命頂礼浄瑠璃の法界教主薬師尊
 おん手に持ちし薬壺開きて病苦救わんと
 昼はひねもす日の光 あまねく衆生照らしつつ
 夜は清浄月光に抱かせ給う両菩薩 十二の神将従えて
 四苦や八苦の人の世に

 八万四千の薬叉たち障り除きて安かれと
 無心の施薬なし給う大悲恩徳極みなし
  ありがたや瑠璃の浄土に包まれて
 恙なきかな今日も明日も 南無大悲薬師尊

 宝住寺特集号に寄せて   住職: 河野義方

 この度は、貴会の「綾部の文化財」に当山を特集して頂き誠に有り難うございます。 二十一世紀は心の時代と云われて久しいですが、市民の心の拠り所になればとの思いで「いきいき羅漢クラブ」、「お月見プチコンサート」等を開催し、また、「きゅうり封じ薬師大祭」を通して多くのお詣りを頂いております。
 少子高齢化、一方国際化の時代にあって、今後もふる里綾部の活性化のため、微力ながら活動してゆく決意です。
 最後になりましたが、取材編集でお世話になりました事務局の皆様に御礼申し上げます。  合掌