「鹿王院を訪ねて」 号車 事務局会計 延町 森本一郎

 
足利義満の扁額「覚雄山」がある山門前
にて 吹田宏海師と共に 1号車
 

 今回の研修旅行は、従来より会員の方々から、あまり多く廻らず一、二箇所をゆっくり観賞したいとの根強い要望が有ったことから、妙心寺と鹿王院に絞って研修する企画としましたが如何でしたでしょうか?

 さて、人の波の嵐山での昼食と買い物を済ませ、人の流れに背を向け人通りの少ない裏道を、暖かい日射しを受け、そよぐ風に秋の冷やかさを感じながら、妙心寺内とほぼ同じ600メートルをゆっくり歩いて鹿王院に着く。
 
 二号車の皆さんがご住職の吹田宏海和尚を共に記念写真に納まる。続いて一号車。ボランテイアガイドさんの案内で紅葉の参道を一団が続く。最後の私達はチョット遅れてご住職に山門ついて説明を受ける。この寺は応仁の乱(1467〜77年)で悉く焼かれ、唯一残ったのがこの山門で有るとの事。

 門の建築様式も現存している最も古い様式で有るとの事であった。

 そもそもこの寺は、足利三代将軍義満が、康暦三年(1380)に自身の長寿を祈願して建立したものと言われている。有名な彼の建てた金閣寺(応永四年、1397)より17年も前に建てた物である。

 因みに義満は、父の二代将軍義詮を38歳で亡くし、11歳で将軍となった人であり、没は51歳である。

 この山門は確かに見たことのない様式である。神社の神明造りの様に、妻に立派な棟持丸柱が有って、それを主柱に貫通する梁が組まれ、その先端の前後に軒桁が載っていて、内側には立派な控え丸柱、外側には化粧角柱で受けられて居り、更に梁の下には同様にして飾り梁受けが設けられていた。

 各柱は風雪に良く耐え見事に枯れていて、六百十余年の歴史を物語っていた。この時代まで古代様式が神社建築以外でつかわれていたことが判り収穫だった。扁額は義満24歳の書と言われる山号が、細めの伸びのある書体で書かれており、芯の強よそうな人物であったように見受けられた。

住職様と連れ立って玄関へ向かいながら、寺院規模は創建当時より大分縮小されたこと、一時天竜寺の一寺となっていた事、中門で山門との形式の違い等をお聞かせ頂いた。客殿で、ガイドさんから説明を受ける。本庭が枯山水の初めの頃の物であること、舎利殿には由緒ある仏舎利が安置され、天下泰平を多くの天皇が祈祷されたとの事であった。

庭は実に平易な質素なもので、借景を生かした造りだった。枯山水の庭も、ここから発展したのかと納得した次第だった。

本堂と舎利殿では同行の皆さんは、懐中電灯を照らし、それぞれの仏像や、多宝塔の彫刻、絵画などを熱心に鑑賞されていた。私は建物や庭に興味があり、二つの発見が有った事に満足を覚えた。

足の弱い方には申し訳なかったが、それでも頑張って皆さんに行って頂き、喜んでもらえた事はとても嬉しい事でした。

何時もの事ながら皆さんの御協力で、予定時間通り事故もなく研修できた事は、世話役の一人として有難い事でお礼申し上げたいと思います。