綾部の文化財シリーズ(第十回)                    HP綾部の文化財
あやべ西国観音霊場第一番
近畿楽寿観音霊場第二十一番

那智山 正暦寺
(高野山真言宗)

正暦寺の本堂と萩

 一.所在地 京都府綾部市寺町堂ノ前45番地
 
ご本尊 聖観世音菩薩
 御脇立 不動明王・毘沙門天

 御詠歌
 何鹿やいかに名づけて那智の山 滝も綾部の浪に乗るらん
 三熊野をここに移して那智の山  後の世てらす慈悲のみのりに


 一.
正暦寺の縁起沿革
 当山は人皇61代朱雀天皇の天慶五年(942)空也上人当地巡教のみぎり、上人42歳の厄除けのために聖観世音菩薩の尊像を彫刻され、須知山の頂き「霊山ヶ嶽」に安置された。これが当山の開創である。この年から数えて、平成14年は一千六十年目であった。
 その後、65代一条天皇の時代、聖楽上人はせっかくの霊仏が山頂に鎮座されて、諸人の尊敬も十分でないことを歎き、現在の「桜戸」に移し、七堂伽藍を建立し密教伝道の道場とした。これ正暦二年(991)のことで、開創から49年後であった。

 その年8月、炎暑はげしく、旱害各地に生じ、朝廷では諸国に勅令を出し、雨乞祈願をせしめられた。聖楽上人その撰にあたり、雨を祈られたところ、功績たちどころに顕れ庶民にその惠みにうるおうこと多大、天皇いたくその功績を賞され、特に年号を寺号に用いることを勅許されて、正暦寺と名づけられ、かつ勅願寺に准ぜられたという。
 降って平氏の盛んな時代、小松内大臣平重盛公、当山御本尊に深く帰依し、あまたの荘園を寄進し、かつ当地の地形が紀州熊野の環境に酷似しているとして、熊野三山を当地に移し、山号を那智山(旧須知山)と称した。これ当山山号の由来であり、当市内に熊野神社もあり、本宮新宮等の名称の町名が今でも残っている。

 その後寛永十一年(1634)、鳥羽より入封した藩主式部小輔九鬼隆李公、深く当山本尊に帰依し、数多くの供田を寄進し、かつ祈願寺と定められ、なお家中の諸氏進んで当山の檀徒となり、寺門の再興に協力されたため、次第に寺門の基礎が固まった。湛信上人が住持の時、伽藍等甚だしく損傷しているのを見て、大改修を発願、藩主の後援を仰ぎ、遠近檀信徒に呼びかけて、ついに天保九年(1838)本堂を改築、続いて庫里その他寺内の堂宇、山門にいたるまで、総改築の大事業を完成した。

 その後、明治維新の変動に遭い、藩主の庇護は離れたが、幸いに本尊菩薩の御威光、高祖大師の御遺徳ならびに檀信徒の熱烈な信仰護持によって、寺運の衰微を免れた。

なお、昭和35年には、御本尊聖観世音菩薩33年目の御開帳大法要を厳修、戦時中供出した梵鐘の再鋳も成り、叉当山に安置する大聖不動明王を交通安全・諸願成就の本尊として柴燈大護摩供を執行し、爾来毎年1月28日初不動御縁日に盛大に修している。

 昭和58年3月には,宗祖弘法大師人定一千百五十年御遠忌大法要を厳修し、その記念事業として境内を拡張し、不動堂大師堂を建立し、更に日展特選作家渡辺誠二氏に謹製の幼没水子地蔵尊を建立し、各家の分身水子地蔵尊を祀り、毎月24日(お地蔵さんのご縁日)を定例供養日としている。

 高齢化社会にあって、長命で楽しく幸せな老後を願い、由良川が眺望できる新境内に楽寿観音像を建立し、平成元年5月には、三府県(兵庫・京都・滋賀)で「近畿楽寿観音霊場会」を開創し、当山は二十一番札所として近隣の信仰を得ている。
 平成5年3月、御本尊御開扉法要を高野山管長猊下の御親修のもと、厳修、記念事業として、位牌堂・大師堂を建立し、大師堂には雪舟より十七代目長谷川等伯の末裔、春洋画伯の襖絵が完成した。

一.正暦寺の文化財

 〇絹本著色仏涅槃図(国重要文化財)
 (鎌倉時代、縦118.8、横119.4センチメートル、奈良国立博物館寄託)
 涅槃図は釈迦入滅の2月15日、釈尊の遺徳奉賛追慕のために行なう涅槃会の本尊とする仏画で、釈尊がまさに入滅しようとする劇的な場面を描いたものである。
 沙羅双樹の下にしずかに身を横たえ臨終をむかえようとする釈尊の姿を描いている。周囲には文殊、普賢などの諸菩薩、十大弟子、在家の信者たち、像・獅子・などの動物までが描かれ、釈尊の死を悲しむ姿が表現されている。
 この涅槃図は鎌倉時代の作品で,時代の風潮を反映して動きの激しい画面を濃厚な色彩と肥痩のある線を駆使して描いている。大げさに泣き叫ぶ羅漢,身を転げて悶える禽獣の姿には活気と動きがあらわされ、まとまりよく描かれている。
 寺伝では画僧兆殿司(明兆=南北朝から室町時代の代表的画僧)筆と伝えているが、画き方からみて鎌倉時代の作とかんがえられている。
 〇府指定名勝・正暦寺庭園(府指定文化財)(江戸時代)
 庭園は、本堂の北に接して並ぶ客間(旧位牌堂)と庫裏の西側、庫裏側からの座視観賞を意図して築かれている。南北幅約十六メートル、東西の奥行き約11の広さを持つ枯山水の庭園で、西辺を限る竹垣の手前に南北に延びる野すじ状の低い築山を主景として配し、立石を交えた五十個あまりの景石で築山の輪郭と枯滝を組み上げている。石組の構成は、もっとも高い立石から組みおろす枯滝と、それに呼応する形で据えられた低い立石から組みだされる枯滝をそれぞれ中心として成り立っている。

 築山外縁から約4メートル手前庫裏側に離れて、鶴島を意識して配置されたとみられる十数個の石で構成される独立した石組がある。この石組は、本来は長径1.5メートルほどの楕円形の輪郭をしていたものと考えられるが、現状では、客間の外縁部に近接した東及び南辺の一部が、建物の外壁輪郭に合わせ直線的な土留め石列に改められた形跡がある。
 庭園東側を画する本堂から古裏までの建物は天保年間(1830~44)の再中興期に建造されたものであり、寺伝ではそれ以後に建物平面輪郭を拡張する増改築はないといわれることから、庭園の築造は江戸時代中期に遡る可能性もある。
 木造千手観音立像(市指定文化財) (平安時代、像高97.5メートル)
 綾部地方では十二世紀末ころから熊野信仰が盛んになった。その頃作られたものと思われ、藤原様式の繊細な感じの像である。
 本体部分は一木造で,両肩のところで腕を矧つけてある。冠飾り、髪の毛の生え際のつくり方、耳の曲線のつけ方、頬から顎にかけての顔の輪郭に平安時代後期ころの仏像と共通した特色がみられる。
 肩から胸部、腰辺から膝にかけては細い体躯つくられ、着衣の襞の表し方も彫が浅く、穏和な表現が特徴である。
 〇木造不動明王立像
 江戸時代、綾部藩主が参勤交代の折に道中の安全を願い,守り本尊にした仏像。新義真言宗を起こした興教大師(覚緵上人)の作と伝えられている。
 毎年1月28日に行なわれている「不動明王大祭」の本尊になっている。
 駕籠(かご)
 綾部藩九鬼家より寄進の駕籠。
 文政五年(1822)に九代藩主となった九鬼隆都公のもとに、桑名十万石の松平家より嫁入りがあった際に使われた。
 正暦寺の扁額
 元禄時代の有名な書家、佐々木玄龍の作。
 一.正暦寺の催事
 
不動明王大祭(毎年1月28日)
 
 午前10時、庫裏前から山伏の法螺貝の音とともに不動堂の前へ行列行進。
 行事の後、本堂の「四国八十八ヶ所お砂踏み法要」もあり、叉、無料接待の「大根だき」等や模擬店は多数の参拝者で大繁盛であった。(綾部の文化財守る会事務局追記)

写真:
正暦寺石段と山門 (御不動御縁日)
不動堂に関係僧侶・山伏参拝 不動明王大祭 柴燈大護摩供
萩祭り(毎年九月中旬の土曜日)
 この萩祭りは不動堂に向かって左手にある「近畿楽寿観音霊場第二十一番札所」の楽樹観音様をお参りします。
 その後、正暦寺の「萩」を愉しんで頂きます。
萩祭り 千手観音堂前の萩 萩のトンネル
 綾部の古木名木100選の一つサルスベリ 幹周1.6M樹高4.1M
他にも文化財としては「絹本著色十六善神像(縦123.5、横69.2センチメートル)」や綾部の古木名木百選の一つ「ケヤキ幹周4.4、高さ32メートル」もありますが紙面の都合上掲載出来ませんので是非各自でご参拝の上、見学をお薦め致します。 (綾部の文化財を守る会事務局追記)
引用文献:綾部市資料館発行「あやべ歴史のみち」
写真提供:綾部市資料館及び文化財を守る会事務局撮影
正暦寺住職 玉川正信