西福院境内に眠る 山鹿素水 = 憂国の兵学者 =       HP:綾部の文化財 

                        綾部史談会々員 塩尻千賀良 氏

山鹿素水の墓

 山鹿疎水の眠る西福院は、詳しくは臨済宗妙心寺派徳応山西福禅院(神宮寺町)である。
 綾部陣屋のあった台地上の西側にあり、藤山々麓に位置する。元々は、現在地よりも更に西方の藤兵衛谷の裾野(南ヶ丘鶴吉翁碑の辺りの裏山)にあったが、現市庁舎辺りに移り、三度目が今の地である。創建は、今を遡ること四百年前の慶長八年(1603)である。この寺院境内の本堂裏に「山鹿素水」の墓がある。

素水は天保十四年(1843)〜安政四年(1857)の15年間綾部藩に招かれ、兵学を講じている。そしてこの綾部を終焉の地とし、歴代藩主の菩提寺である隆興寺の隣寺であり、法類でもある西福禅院に葬られている。

          (一) 素水とその兵学思想

 素水は山鹿流軍学の祖である山鹿素行(元和八年・1622)が活躍した時代より下ること二百余年、幕末の兵学者である。武田信玄・勝頼を源流とする甲州流兵学が、幕府の正式の兵学として採用されて以来の宗家に生まれた。「余不肖を兵家に(うまれ)、家傅を講究する数十年、既に知命((五十歳の称))に至と(いえども)短材(たんざい)愚昧(ぐまい)、更に得所なく固陋(ころう)偏狭(へんきょう)にして、徒らに父書を読むのみ。・・・・弱冠より発憤する所有て操練の事に心思を(つく)し、家傳を祖述し諸家を参考し、・・・・」(練兵説略抄録)と家傅兵学を世に問い続け、堕落し続ける武士層に対する武士道の精神再興とその高揚を典籍をもって訴えた。又、別の箇所では「治に乱を忘れざるは、人君最も心を可盡の要たり。承平既に久しく、干才府庫に納り、将士目に旌旗(せいき)を見ず、耳に(きん)()を聞ず、暖衣飽食、般楽怠傲(はんんらくたいごう)に武備解弛、士気衰弱するは自然の勢ひ也」

 平和な時代に戦乱の世を忘れてはならない。君主はとりわけ、この事に心を砕く必要がある。曽て武具は倉庫で埃を被り、実戦で使う幟も鉦も太鼓も見聞せず贅沢三昧暮らしからは、体力も気力も精神力も失い、遂には、戦意喪失にも等しい状態が、今日の武士層の実態であると泰平の世を慨嘆し、警鐘乱打している。

更に論を進め「戦国に操練なく、治世に必ず操練を要す。戦国に操練なきは、士卒常に水火の中に入、自刃を(ふみ)、矢玉を冒し萬死に入て、一生を得れば将の指揮に従ふと、左右の手の如くなれば、実地に練熟すれば也。」命を水火に曝す緊張感そのものが操練である。この極限の世界では、戦術を指揮する大将の一挙手一投足を見逃さずにその手足となって働く。まさに命を預けた将への信そのものが一糸乱れぬ統制のとれた組織戦を生む。
 併し今は平時の世である。故に「是治世必ず操練を要する所以也」「太平三百年に近く、軍陣戦闘の事は夢に見ることだになく、其備処も知らぬ烏合同様の兵を卒し、大節の場に出て何をかなさん喧嘩迷乱の外なし」としている。これでは、正に兵士は、戦場を右往左往するのみである。

藤の花咲く 西福院境内

 素水がこの幕末のこの時期に最も恐れていたのは、世界列強の鎖国日本への門戸開放の波である。即ち「然るに近年操練盛んに行れ、列国急務として専ら(きょう)(えつ)あり。」操練盛なれば「萬一(ばん)()来寇(らいこう)あるも、何ぞ(おそれ)るに足ん。」とその気運の高まりを喜んでいる。 更に「専用火砲之説」(練兵実備)の項で大小砲を駆使することにより、器量の有無、技倆の高低、力量の大小に拘わらず、敵陣へのダメージが甚大になる。

 大きな損害を新鋭砲で与え、次に接近戦になった時こそ、弓矢・槍・長柄等の武器が戦法として有効で大きな効果を発揮する。このことを「鉄砲ハ火薬ノ力ヲ以テ猛烈ノ利ヲナス物ナレバ必シモ是ヲ発スル者ノ強弱ト術ノ巧拙ニ由ラズ」又「弓ハ練習ノ功ヲ積ザレハ中々貫透ニ至ラズ、然レドモ敵間既ニ詰リテハ玉込ナシガタクガ故ニ烈シク打立ガタク弓ニ手早ニ数矢ヲ発スルコトヲ得」とする。更に「七八間ヨリ詰マル時ハ足軽ノ弓ニテモ敵ヲ(たお)スニ足ル」とそれぞれの長所特徴を活かす戦法を説く。

 この様に、素水の兵学には、天下国家の立場からの広い視野と、又実践的戦場のない平時に、如何に操練を通して、即戦的力量と精神力を定着させるかを一体的に把える必要を、あらゆる機会を通して説いている。この持説の裏には、「書を述るの後、(あまね)く天下を廻歴し、度々実際に試るに、・・・是より又朝思暮練すること数年、(いささ)か自得する所有て、小備指掌・教戦練兵の大要・・・同志示す。」と言っている。

(ニ)吉田松陰の師 素水

 素水も松蔭も共に、山鹿兵学の宗家の継承者であったから、出会うべきして出会ったと言える。松蔭が、師素水に出会った、嘉永四年(一八五一)兵学研究のため、藩主に従って東行、江戸で学んだ時である。松蔭が師より学んだ期間は僅かであったが、同じ頃、佐久間象山からは洋式砲術を学んだ。江戸での素水と松蔭の師弟関係を知る資料は今の処見当たらない。唯、素水の著書「練兵実備」の跋文を松蔭が添えているのが、唯一その関係を伺わせるものである。

松蔭が、長州藩や倒幕に及ぼした強烈な影響力、その原点にある松下村塾・塾生に説いた内容、これは松蔭の人格そのものであり、そのバックグラウンドに素水から学んだ兵学思想が位置付けられる。

 綾部九鬼藩九代藩主(たか)(ひろ)は藩財政の逼迫の中で幕府要職を退くが、素水のその後の処遇にも関連していたかは詳ではないが、素水の身辺に何らかの異変があったことを示唆する件が見られる。

 平和家文書(562・京都府立総合資料館所蔵)にある素水関連事項を以下抜萃する。

@「元来山鹿翁ヲも召抱候儀・・・当時武門第一之職柄之以被召置候
A右之通、山鹿素水儀ハ不届者二而既ニ、御家二も拘り候仁故是迄軍法御指南申上其功莫大ニハ候へ共御上二者難替
B公辺御大事吾郷之安危存亡ニ相拘候間
C御家之安危存亡之堺目此斯を以万端御復政被遊御家中御領内一統安心仕候
D如何様御咎被御付候共御家御安之程を奉願如何計難有仕合奉存候
E万一当願一件御藩中之向より御領内之乱を引出し内外一致之大乱を出し候様之義有之候而ハ御家甚以御大切之事与奉存候
 兵学の師範として藩に仕官した素水の命運を左右する何かが起こったことは間違いない。

(三)綾部に残る「素水自作」の掛軸

 掛軸一幅が残っているのは、芦田新左衛門家(現、広小路のゆらり)である。 芦田家は「武田信玄公之家臣浪人して当所に」(系図覚書)とあり、甲州出身で丹波国に移住した。後、町年寄として活躍、五代・六代には家運隆昌し、豪商(醤油・酢製造販売)として財を為した。

十代現当主の話では、幕末には、三十間X三十間、約九百坪の敷地であったと、幼少の頃祖父から聞いたと話していただいた。六代秀堅は、山鹿流兵学の源流が甲州軍学にあり、甲州に特別の郷愁を持っていた。偶々、九鬼藩に仕官していた素水に「芦田家の今昔」を掛軸に託して依頼したものと思われる。病床に苦しんでいた素水は、秀堅の達ての頼みを断り切れず、製作に取掛かった。掛軸の讃には、「積善(せきぜん)の家ニハ必ず余慶がある・・・其身のなすへき業のみ唯一筋に勤めはけまん・・・綾部の里なる芦田鎮作秀堅は・・・父の(ころ)よりなりはひも衰えしに・・・いつしか其産業も盛んに再び家を興しぬ・・・左巴の紋付たる麻の御上下を下し賜しハ永く其家の面目成へし・・・秀堅功成て・・・其子秀茂に家を譲り、其身は風月に(うそぶ)き甲斐の国なる身延の御山に詣・・・大江戸の栄えヲ見んとし御前に召し出され御盃を下し賜りぬ。秀堅故郷にかさる錦にまさる家土産となし永く家の宝に秘置かぬ・・・秀茂其姿を紙に写し子孫のすえまでも伝えんとする・・・後略」(村岡(むらおか)敬公(ひろまさ)先生釈文)。

 掛軸上部に讃辞を、下部には、秀堅を中心に、先妻貞女、後妻八重女の肖像画を配して描かれている。

(四)   晩年の素水

 幕藩体制の弛みと、内部矛盾を内包しながら、ひたすら、そのレジームを堅持しようとした幕府。幕府は、開明的思想やその文明が、鎖国政策を続行する我国の封建社会に上陸することを、極端に警戒した。この動きの浸潤を阻止すべく、幕府は、洋学蘭学研究や科学的合理性の思想的系譜を一にする思想家・研究者グループを、蛮社の獄を初めとして厳罰に処分した。偶々、反幕勢力の急先鋒となって活躍していた松蔭と師弟関係にあったというその一点が、晩年の素水のその後に影響したとでもいうのだろうか。

 晩年の兵学者素水は、蟄居幽閉に近い暮らしを強いられ、その上最愛の妻にも先立たれ、妻の死後、失意の中にあって二ヵ月余りで、素水も、又静かに綾部の地で息を引きとった。

 兵学という保守的思想に拠って立つ素水でさえ、動乱の幕末の荒波に飲み込まれていった一人なのかもしれない。

*参考図書及び聞取り・資料・写真提供
練兵説略抄録・練兵実備 山鹿素水著、増訂丹波史年表 松井拳堂著、綾部町史 村上祐二著、
吉田松陰 日本の名著(31)山鹿素行 日本の名著(12)中央公論社、聞取り・写真提供 臨済宗妙心寺派徳応山西福禅院住職 渡辺尚志様、聞取り・資料提供 十代現当主 芦田美知子様、釈文引用 古文書インストラクター 村岡敬公様。