綾部の文化財シリーズ (第八回) 於与岐八幡宮 HP:綾部の文化財へ
於与岐八幡宮
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| 於与岐八幡宮拝殿 |
一.所 在 地
京都府綾部市於与岐町田和28番地
一.境内地所等所有土地等
境内地所:1093坪、宅地:241坪、田地:3反6畝9歩、畑地:1反2畝11歩及び債券
一.御 祭 神(次の御三柱)
比売大神(向て右、別名、十二社大神とも云う)
八幡大菩薩(中御前、第十五代応神天皇、別名、誉田別命)
大帯姫(向て左、別名、神功皇后)
一. 境 内 社(八社)
大神神社 祭神 大日霊命
三柱神社 祭神 宇津彦命
一宮神社 祭神 伊邪那美命
二宮神社 祭神 大己貴命 以上の四社は右側に合社です。
武内神社 祭神 武内宿祢
春日神社 祭神 天児根命
春日神社 祭神 天児屋根命 以上三社左側に合社です。
稲荷神社 祭神 保食命
一.現存の文化財・造営物等
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| 八幡宮本殿 |
*無形民俗芸能・於与岐八幡宮の祭礼芸能(京都府登録文化財昭和59年4月14日)
*八幡宮文化財環境保全区(昭和65年5月15日京都府決定)
*本殿・六間社流造、銅板葺(昭和60年5月15日京都府登録文化財、附棟札二枚も含む。)
桁行七間、梁間二間五尺四寸、
*拝殿・入母屋造、銅板葺 桁行四間、梁間二間半、
*神輿倉(三柱用三基)、*舞楽殿、*社務所*石玉垣(高三尺壱寸、延長十三間)
*鳥居・第一は神明造・雨控寸(高三間、 幅二間三尺)
*鳥居・第二は明神造・(高二間、幅壱間五尺)
注、八幡宮本殿の建立は棟札によると江戸時代の正徳五年(1715)で、大工は若狭大飯郡日置村一瀬喜兵衛、彫物師は丹州(丹波のこと)桑田郡余野村の一瀬一之助である。社殿は府下では例のない六間社であり、平面から見ると中央に柱があるので、三間社を横並び配置した形に見える。内陣には仕切りがなく、神座を中央に寄せ、両端が空いている。造りはやや保守的で身舎正面に弊軸板戸が六間並び閉鎖的である。身舎向拝の蟇股は、足元が大きくふくらみ、松・菊・牡丹等の彫物をいれ、向拝中央の柱は虹梁で抜き、蟇股の変わりに唐獅子牡丹の欄間彫物を加えている。昭和十年(1935)に若干の補修がされているものの、中世の形式を伝えた六間社は興味深いものです。
*第一の神明造鳥居の横に「指定社」の碑・高さ約2.5メートル、方30センチが大正3年7月10日に吉美村・星原の今井正三郎先生が奉納して居られるのが目立つ。
*拝殿前の石玉垣の前に「綾部の文化財を守る会」建立の駒札も目立つ。
*又、八幡宮文化財環境保全区の通り境内やその周辺には樹齢数百年を得た多種多様の古木が目立つ。
一.沿革(由緒)
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| 味方町にある 第1の鳥居跡 |
一、伝承によると武内宿祢の遠裔の吉田七朗兵衛なるものが発起し、西暦710年人皇四三代・元明天皇の和銅三年に豊前の国宇佐神社より御分霊を拝受し、勧請し、一の瀬に祀る。
当時氏子は何鹿郡(現・綾部市)の味方村以北、下八田、淵垣中村、安国寺、梅迫、上杉、於与岐に至る七ヶ村の惣社であった。その根拠は現味方町の旧道を綾部側から鉄道のトンネルを越えていくと右手に大正元年八月建立の「於与岐八幡宮第一の鳥居跡」の高さ1.7メートル、方25センチメートルの碑がある。又旧道の淵垣町の二の宮神社の幟立ての横に同様の「於与岐八幡宮第二の鳥居跡」の碑がある。そして、上杉町鳥居野公民館前の左手に大正七年十月再建の「於与岐八幡宮第三の鳥居跡」の碑が現存しています。
鎌倉時代は幕府の功臣・勧修寺重房が、京都より宗尊親王を将軍として迎えた功より上杉の姓を授与され、そのバックアップにより、又娘・清子を足利貞氏の家女房として迎え、初代将軍足利尊氏をもうけて何鹿郡(いかるがぐん)味方村から舞鶴の田邉までをもその勢力に抑えていたと思慮される。又、渕垣八幡宮は社殿によると1343年(康永二年)造営と記している。当時は足利尊氏が綾部安国寺を建立した時であり、於与岐八幡宮の分霊であるともいわれている。
一、1441年(嘉吉元年)社殿大火にあう。
一、1462年(寛正三年)八幡宮薬師如来再興。
一、1551年(天文十九年)一の瀬八幡宮大水害にあう。(七ヶ村分離する。五ヶ村等にて八幡宮再建)。
一、1715年(正徳五年)八幡宮社殿再々建(このとき、上杉村以南が分離・於与岐一村の村社となる。)現存する一の瀬の旧祀所の祠は、元お旅所の鳥居野の小社を移したものである。
一、1748年(寛延元年)薬師如来修 理。
一、1856年(安政三年)赤獅子頭奉納。
一、1892年(明治二五年村社に決定、相根久兵衛記録から。)
一、1898年(明治三一年、相根久兵衛・渡行祭礼護録を記す。)
一、1907年(大正元年)味方町に第一の鳥居跡の碑、渕垣町に第二の鳥居跡の碑を建立する。
一、1914年(大正七年)指定神社の碑奉納(新五朗、吉美村星原・今井正三郎先生)
一、1918年(大正七年)上杉町鳥居の公民館に第三鳥居跡の碑建立。
一、1935年(昭和十年)八幡宮改築。
一.於与岐八幡宮祭礼芸能について
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一、於与岐八幡宮の祭礼の特色は、祭礼が氏子の株組織と密着して宮座の形をとって伝承されてきたことである。戦後そのしきたりがすたれたが、宮座を残したものとして注目される。祭礼は陰暦では八月十五日であったが今は、十月十五日に近い日曜日に行なわれる。昔は祭礼の三日前打ち合わせの口あけ講をし、禰宜役二名が舞鶴に出向き身を清め証拠に海藻を持ち帰り、他の役は昔あった「いみ屋」で祭日まで精進潔斎をしていたという。今は九月三十日夜八時半頃、一の瀬の「小社」に宮司と神社総代四名が「宮迎えの行」をしている。
一、大祭当日は朝八時於与岐町の四ヶ村に「ふれ太鼓」でまわる。九時半頃本殿において祭典が宮司、禰宜二名、神社総代、自治会長、棒頭(神輿の責任者)が参加して祭典が行なわれ、三柱の神を神輿に移す「御霊遷(みたまうつし)の儀」がありその時は、幕とじ一般の人はこの儀式は見ることが出来ない。その間、楽殿では「宮座」の形、すなわち一の瀬に創始した時の祭礼役・六役がそれぞれ同族に世襲されている。即ち禰宜役は吉田、上野の二家に鼻長役は吉田株二家へ、獅子役(獅子舞)吉田、吉崎、坂田株四家へ、庭雀役(ムシロを敷いて迎える役)は坂田株一家へ、御饌役(おせん・神にお供えする食事)を炊き奉った者を御饌炊と称し、吉崎株へ、初めて神輿を担いだ者を駕篭丁と称し、山口、吉崎、吉田、井上、滝花、野瀬井、坂田、大久保の十一株へ伝わり、又、昔は奉行役は古小袴と称し、相根・吉崎、吉田株に伝わっていましたが、今は区長、氏子総代が勤めている。
これらは吉美地区の式内社・高倉神社では宝暦十三年(1763)の記録では有岡町のみが出すのが笛役、太鼓を打つ役、ヒヤソ踊の「ビンササラ」役五名、多田町のみが出す役、天満宮太鼓と打ち手、担ぐ役、「ビンサラサ」役 五人、ビンササラ役は他に、里町七人、小呂町四人、星原町三人の合計二十四人で各自のビンササラは二十四本で首にかけて、一踊り毎何番ソーレと声をかけるのが今でもしきたりである。
さて、吉美のことはさて置き、儀式が終わり、着替えが終わった頃に、禰宜が舞楽殿へ来て御祓いをし、神社拝殿前に順次そろい、行列を組み、現在では神社の周囲を三回まわる御旅をする。終わって、庭の東方に神輿三基を塀並行に安置し、その前で獅子舞・鼻高の舞が奉納される。獅子舞は二人立ちで伎楽系のものである。鼻高の舞は一人が演ずるもので、白衣を着て天狗の面をかぶり、小鈴をつけた木鉾を持って舞う。鉾で地面をかきならしたり、足でふみしめたりする所作は国生みの神話を形どっている。田楽は、ビンササラ一人、太鼓三人の編成で、神輿の御旅をはやしながら先導するものである。(ア、オーハト)いずれも風化が著しいが、王舞・獅子・田楽をセットとする祭礼芸能を伝えている。この祭礼芸能のあり方は鎌倉時代に京都を中心に盛行したもので、その形を伝えていて貴重である
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獅子頭之舞
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一、北方に向かって三拝
二、神輿の一の宮に三拝
三、二の宮に三拝
四、三の宮に三拝
五、御休憩所の注連縄の内を、太鼓の音に合わせて、並みの歩調で一回りする。
六、各神輿に一拝し、早々歩調で一回りする。
七、各神輿に一拝し、走り歩調で一回りする。
八、終わりに一拝し、拝殿に戻る。
鼻高の舞(王の舞)
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木鉾先に小鈴を付けて持つ。木鉾は、素手で掴んではならない。
第一動作 参拝: 神輿の前に進み、足を広げて立ち、各神輿に参拝。これを三回・計九回行なう。
第二動作 捜す: 鉾で四方の地上を打つように。最後は雫を落とすように突き出す。
第三動作 地固め: 鉾を持って北方から地上を掻き回し、掃き均した後、此処彼処と足で踏み固める。北、南から二回
第四動作 舞: 鉾を神輿に面して立てる。大いに悦ぶ客姿で首を傾け。 透かすように鉾を見つつ五六歩後に退き。足摺りで鉾の下に進む。北、南から二回
第五動作 参拝: 神輿に向かい一礼する。 以上
現在は最後に子供太鼓をほうのうしている。又、祭礼終了後、「舞楽殿」にて行列参列者は「宮座」の決まった場所で昼食「講」をする。
(参考資料)綾部歴史のみち(綾部資料館発行)、郷土誌・東八田、神社昇格願い(昭和二年発行・相根久左衛門)、於与岐区史(第二章・沿革の部)綾部史談会報第七八号(村上祐二氏)同上一二五号(植木行宣氏)丹波誌何鹿郡之部、会報「綾部の文化財第五五号」等(写真)綾部の文化財を守る会事務局
於与岐八幡宮 宮司 稲葉達夫
於与岐八幡宮祭礼芸能保存会 代表 吉田 晟