会報第12号 昭和52年1月1日     綾部の文化財一覧表へ   綾部の文化財
建田のこんぴらさん  井上 益一氏  写真は丹の国綾部(写真集)から
 すでに「綾部市史」「丹の国綾部」等に紹介されているのでくどいように思うけれど、かわった伝統行事のことで今一度記してみたいと思う。
 建田とは口上林地区内、武吉・佃・忠の頭字タッタをとって建田の字をあて明治初年にできた村名である。
そこに伝わるこんぴら信仰は全員が講員で、正しくは宝永講という。宝永六年(1709)武吉村源兵衛宅よりはじまるといい次のようないわれがある。

 関ケ原の合戦に西軍に組した藤懸永勝は他の部将と共に田辺城(細川氏)を攻めたかどにより、所領一万三千石を六千石に減ぜられ慶長六年上林谷に入部石橋城山の麓に陣屋を構えた。其の後子孫を次々に分家させ、禄高は四千石になり財政は逼迫、その上度々の大水害にもかかわらず年貢米はきびしく取立てた。そのため領民は苦しみあえぎ、減免を訴えて出た代表の武吉村佃村庄屋年寄などはきびしく処分された。
 たまりかねた農民は暴政を幕府に直接訴えようと計画し、その使を屈強な若者三人が志願した。旅費を日頃修験道などで弥仙詣をして知る、他領於与岐村の庄屋吉崎五左ヱ門にもとめた。三村あげてのこの企を知った吉崎はすべてを覚悟してこれに協力した。
 三人は死を決して出発、和知大簾で宿を借りたり、近路を教えられたり大井川の渡も川止め直前に都合よく渡り領主のさしむけた追手をうまくのがれ江戸についた。そうして幕府に訴え願はかなえられ、代官は罰せられて領民はすくわれた。
 純朴な農民はこの越訴が成功したのは、一に日頃信仰するこんぴら大権現の御加護によるものとし願がけの通り千年の講を行うこととし、其の後毎年盛大な講を営むことになったという

 この講は三町区を輪番にまわり、町区内の組も順をきめているが、神を祀る家つまり講元はその町区の公選により定める。その家の一室を社殿とし一年間、床の間に金刀比羅大権現をまつるのである。毎月十日は例祭、十一月十日は大祭で午後三時頃、講員の遙拝式、午後四時頃、講元交代の戸渡し式を行う。これには昔から引ついできた御正体のおさめられた木箱を宮司から当年の講元へ、それから次年度の請元へ手渡すのである。
 次に膳にゆずの実大根赤とうがらし等のきったものをのせ、それを肴に、ひらわんのふたに神酒をつぎいただいて、当年自治会長講元、次年自治会長講元の順で、それぞれ挨拶があり終る。次に次年度講元の家へ宮司を先頭に行列をととのえ徒歩で行き遷座式を行う。

 昔は遠方からの参拝者が宿泊したり上講したりで、その世話など大変なことだったが、今はだんだん簡単になった。それでも参拝者は随分多く、進学就職、交通安全、安産祈願等をする人々が多く時代を反映しているようだ。みやげ物日用品、農具等を売る店も多かったが今は少くなった。こんぴらさんといえば、子ども心に氏神祭よりもはるかに楽しいものであった。
 明治二十年本社讃岐金刀比羅宮の崇敬講社に入り毎年はるばる代参をおくり、地元では式ごとに宝永の頃の気持にかえりうやまって遙拝を行う。

 時うつり事去り、考え方にも色々な人があるだろう。然し一揆に発したとはいえ伝統的な信仰行事の根強さは、現代人の生活と感情から幾分のゆれはあっても簡単にくずれ去るものではなかろう。筆者は関係町区の自治会長や係として前後七回にわたる戸渡しの式に連なり、そうした感を強く強くいだいたものである。
 あとになったが、大祭当日、於与岐町吉崎五左ヱ門家の当主及び和知町大簾自治会代表をお招きし心からのおもてなしをするのは、かつて江戸行きに際し、一方ならぬ協力を願ったことに対する感謝の意味である。戸渡し儀式に、なまのゆずの実大根とうがらし等を肴に用いるのは、江戸行きを無事に終え帰郷したのを喜び迎えた時のささやかなさかもりをあらわすものという。
 武吉等の庄屋年寄等が処分されていることの詳細は、残念ながら今のところ研究も不十分であり、又他の都合もあって公表はさしひかえねばならない。