丹波焼コレクション   綾部市 中央公民館   綾部の文化財一覧表へ  綾部の文化財

指定文化財 重要文化財 丹波焼コレクション 有形民俗文化財 150点 室町〜江戸時代
会報7号 昭和48年10月8日 春の史蹟めぐり
 丹波焼の窯元をたずねて  中西 茂氏
 恒例の綾部の文化財を守る会の第四回史跡めぐりは、4月29日の天皇誕生日に行われた.
 朝8時、市役所を出発した京都バスは、福知山より、国道176号線を南下した。天気も良く、丹波路の木々の若葉は萌えて、最良の季節を思わせた。
篠山 丹波焼古陶館
 先ず10時、バスは篠山丹波古陶館」につく。篠山の町は城下町で、古い建物が多く、一寸倉敢市を想わせるような街並みである。丹波古陶館は、昔の蒙家が立ち並ぶ河原町の一角にあり、中西幸一氏のコレクションを中心として、7百年間にわたる代表的な陶器の品々が陳列してある.家も昔風の日本家敷の米倉であったとかで、細長い室内であった。大さな壺から花瓶、茶碗等、年代順に並べられてあった。
 それからバスは更に南下して、今田(こんだ)町立坑に着き、まず会館に於て11時20分から12時10分まで左講演を聞く。
 「陶芸師と丹波焼きについて」 京都府立総合資料館勤務 中ノ堂一信氏
(要旨)
 丹波焼きの歴史は遠く鎌倉時代にはじまる瀬戸常滑(とこなめ)信楽(しがらき)備前越前と共に日本古窯の一つに数えられている。
村境の三本峠には、その頃使われていた「穴がま」の址を見ることが出来る
のぼり窯
ここの特徴に「のぼりがま」というのがあり、高さ80センチ、巾2米、長さ5米位の窯室がつながり、40米〜50米もある窯が、山の斜面きはう蛇のようにじゃがまとも呼はれる)見える。古代無形文化財の指定をうけている。
 ここの焼物は、花器、茶器、食器などの民芸品、工業品が焼き上げられ庶民に喜ばれている。附近の家は殆どが窯元であり、ろくろの上の粘土が、技術者の手の動かし方によって、皿に、茶碗に、様々な形が出来ているようすは、手品を見ているようである。赤瓦の立派な家が多いのは、この付近の裕福さを示している。
のぼり窯の内部

 会員は皆、植木鉢とか、銚子、茶碗等を買い求め.バスに待って乗り、バスの重量は重くなってタイヤがへこんだような気がする。3時出先。

 三時半綾部につき、丹波焼の蒐集家守田種夫氏があつめられ、文化庁が収蔵庫をつくって収納してある「守田コレクション」を拝見する。
 大さな壺、水差し、瓢箪の形をした銚子等、色彩もよく、種々な丹波焼の芸術品が年代順に並べられ、説明がついている。綾部にこんな立派な陶器の収蔵庫があるのを知らない人が多く、駅にでも近ければ、もっとPRしたいと思うと同時に、このように立派なものを蒐められた守田氏(元日東精工専務)の心眼と、ご努力にあらためて敬意を表したのである。午後4時半、すべての行事を終って散会した。本日の出席人員 42名。




会報5号 昭和47年1月22日
丹波ほおずき ・・丹波焼のはなし・・  田中 栄治氏
 古い丹波焼の今から3、4百年前(室町末期から江戸初期)に焼かれたものに「丹波ほおずき」と云うのがある。
これは造形の事ではなく色調の事である。大きな壺、かめ、船徳利などに見事に現れ丁度秋深く黄色に染った葉袋からのぞいた、朱を帯びた鮮紅色のほおずきに甚だ似通っている。この発色は銅に依る辰砂柿右ヱ門の顔彩の赤と違って古い支那、朝鮮、瀬戸、信楽、越前などにも見当らない丹波焼独得のものである
 京都の陶工宇野三吾氏
は、恐らくタングステンだろうと言っているが、丹波の陶工達はこれを「狐どべ」と呼んだ。たっぷりかけられた藁灰に赤土を交ぜたうわぐすりと、陶土の中に含まれた鉄分が登り窯の温度と焔の変化に十日以上も休みなく投げ入れられた燃料の松の灰がかかり、化学変化を起こして現れ出たもれである。当時の陶工達には予想もしなかづた色あいであり、再び同じものを造ろうと息っても出来ない。まして現在の陶工家達がいくら努力してみても、昔の原土もなく時間や経済の価値観が変わった現代では再現出来る筈がない。
 中国の唐代に越州窯で焼かれた青磁秘色(ひそく)といつているが、この丹波ほおずきこそ丹波の秘色である。この丹波ほおずき水がめになったり、梅干し壺であったり、船上の酒盛りに欠かせない船徳利になって、茜雲のような見事な色を放ちつつ、数百年の間荒使いされていたのである。今こそ水屋や水指しにとりあげ、松風の音を聞かせて大切にしてやりたいものである。

 二、朝倉山椒
 もう一つ古丹波にふしぎなものがある。それほ朝倉山椒壺である。高さ20センチから35センチ位、形は丸型、丸長胴、胴くぴれ、方角、肩衝等があって、釉薬はいづれも灰だち、土と仕上げは、丹波の陶工としては最高の吟味を払っている。しかも必ず壺の肩に大きく「朝倉山桝」と印刻していろ。制作の年代は慶長末期から寛永を過ぐる頃(1610年から1672年位の間)までの50年間に限られているが、何故短期間だけ造られたのかまだ解明されていない。土も釉薬も、手法も明らかに丹波の釜屋時代のものに間違いがない。朝倉山椒は、昔は丹波、現在の但馬に朝倉と云う地名があって質の良い山椒が産出された記録がある。この山椒を入れる容器である事は判明しているが、立派な壺に盛った山椒を献上したのか、販売したのか判らない。和田寺文書には、葉茶を代官に献上した礼状の中に山椒の礼状が一枚残っているし、「津田宗及茶湯日記」や「御湯殿の上の日記」等の茶会記に使用きれた朝倉山桝壺が何度も出てくる。数十年で忽然と消え去ったことは、朝倉山椒が珍らしくなくなったか、容器や竹や木のうるし塗りに替ったか、いづれにしても朝倉山桝壺は古丹波焼における「まぼろしの壺」である。

 三、清水寺の五重の塔
 丹波焼の発生からの過程は次の三段階に分けられる。
第一期 鎌倉期より、室町時代の末期に至る約250年間の穴窯時代。
第二期 室町末期より江戸中期宝暦二年に至る約250年間の釜屋時代。
第三期 江戸中期より明治に至る約200年間の立杭時代

 上の分類は現在定説になったようである。古い陶器の定説が出来上がる迄には、備前でも瀬戸でも百年以上もかかっているが、丹波の調査発見は比較的新しい昭和十年頃綾部市守田、村島氏が共に備前の出身のため古い陶器に興味があり、京都や丹波方面にふしぎな古陶器の壺や徳利がゴロゴロしている。瀬戸でも信楽でも備前でもない。これは何だろうと疑問を持ち初めたのが発端である。現在の立坑の祖先ではなかろうか。それには古い窯跡が残っていなければならないと、現在の今田町、昔の小野原庄一帯を捜索し初めた。
 古曾部焼研究家の杉本捷雄、篠山の北村重雄氏等も参加、遂に庄谷、源兵衛山、太郎三郎、三本峠等の穴窯の跡を発見したのである。それが昭和12年10月、11月号の「茶わん」誌上に「丹波の古窯址」として連載されたのが初めである。当時篠山の中西尚古堂が古丹波焼に目をつけ何千点か集めていた昭和12年の初めに大阪の百貨店で初めての「古丹波焼展」を開催して人気を博した
 この展覧会を柳宗悦河井寛治郎浜田庄司氏等民芸の家元達が観て、その見事さに感嘆し、柳宗悦主宰の雑誌「工芸189号を昭和13年8月丹波焼特集号として発刊した
 綾部市では、昭和12年6月旧三ツ丸2階に当地方初めての「丹波焼展」を開催した。かくして長らく不遇にあった丹波焼が脚光をあぴ初めたのである。再三守田氏等のお供をして、古陶址を捜しに出かけたが、どの窯跡も数百年吹き曝しのままで、穴窯のほとりに水だまりがあったり、青いビードロの陶片がザクザク出た。口造りや底型等調べて、残りは、帯どめやカウスボタンにしようとリュックに持てるだけつめ込んだ。源兵衛山に行った時、フト顔をあげると一点の雲もない青く澄んだ秋空に、五重の塔がクッキリと浮かんでいた。それは摂津の北端にある、西国二十五番の札所、清水寺の塔であった。こんなすばらしい風光の下でのんびりとビードロの陶器を焼いていた昔の丹波の陶工達は幸せであったろうとしみじみと思った。

 四、民芸としての丹波焼
 最近は民芸ブームである。民芸とは40年程前、柳宗悦氏が唱え初めた民衆工芸の謂いであって、明治維新の産業革命により昔の手造りが一掃され、機械による科学文明が取り入れられて、大量生産の時代に入り、身近に使用する物が一様に均一化され粗雑化された事に反発して、昔の手造りの用具にその美しさを発見したのが民芸運動である
 氏はそれを貧の美寂の美用の美と言っている。丹波焼が民芸の一翼を担うものとして取り上げられたのも決して偶然ではない。数百年の丹波焼の歴史は一貫して庶民の為の、庶民に依る民芸に徹していた。その問、当時の権力者であった封建大名の庇護もなく茶人や宗匠の指導も得られなかった。従って箱に納まるよ茶わんや水指し香合等の茶器は造っていない。茶わんも花筒も香炉もすべて貧しい民家の祭壇用の仏具であった。中には例外もあって、名物茶碗「鬼ケ域」や名物茶入「生野」や信楽写しの水指し等があるが、これらは当時の茶人の誰かが、丹波の土で僅かのものを造らせたものであろう。決して土着の陶工達のなりわいの為の製品でほない。半農半陶の陶工達農繁期には農耕に帰る。閑暇が出来るとロクロの前に坐って土をひねる。いづれも土への親しみであって、土への愛と感謝が不知不識の間にあたたかい巧まざる製品を生んでいる。土が小石交りのザラザラした拓器なるが故に直接口にあたる物は造っていない。食卓に上るものは、せいぜい漬物鉢徳利盛り鉢大根おろし位のもので、その他は台所用品である.
 陶工達は概ね貧乏であった。中には屋敷内に神社をまつる程の吉兵衛と云う豪の者も居たが、2,3代で後かたもなく消え去っている。ろくろの前に坐って、どんなものを作れば喜ばれるかばかりを考えて、形が出来れば天日にほし藁を焼いて灰を作り近くの山からとってきた白土を交ぜて白を造り赤土を交ぜて赤を作った。その藁灰が窯の中の焔の変化で、赤になったり青緑色になつたり、茶、黄、紫、銀色等に変化した。それは意識の外にあって、神の技だと考えていた。小さなうるか壺おはぐろ壺を一つとりあげてみても、丹波の陶工達が熱心に作った形、うわぐすり、土、焔の変化等に興味の尽きないものがある民芸としての昔の丹波焼は、ますます認識を高めてゆく事だろう。

  五、丹波焼収蔵庫
 綾部市の自慢の一つに丹波焼収蔵庫がある。丹波焼研究の先覚者である守田種夫氏の蒐集品の内年代別、用途別に150点を選んで、昭和34年に文化庁の重要民俗資料として指定されたものである。京都東寺に伝世する康永三年銘の大壺のように一品で重要文化財の指定をうけているものはあるけれども、こうした丹波焼の変遷が一目で判るまとまった指定は全国にここ一ケ所しかない。多年愛惜した丹波焼をいつでも誰でも鑑賞を出来るように、犠牲を払われた守田氏の功績をたたえたい。
 民俗資料は遠い祖先から現在に至るまでの、庶民達の生存の状態を知る参考品である。衣、食、住に関するもの、農具、日用品、嗜好品の外、宗教、芸能に至る迄、重要な資料でないものはない。殊に収蔵庫にある丹波焼150点の内、特に関心をもって見ていただきたいものを2,3あげておこう
1.穴窯時代のビードロ釉、これはくすりをかけたものではなく、土と然料の松の灰とが窯の中で化学変化を起こして自然に流れ出たもの.実に見事な青色である。
2.釜屋特代の種壺に上、△、六等の釘で書いた印が残っている。共同窯で焼いたため、所有を示す目印に入れたものと思われるが、柳氏はこれは当時、米の代りにこの壺を納税のために使ったためであろうと言っているが、事実は今後の研究にまちたい。
3.第三期時代の徳利に変ったものがあるえびの絵付をしたもの、ローソク徳利、かさ徳利、中でも浮徳利は地元でほ「なまじめ」と云って大きな釜の中に浮かせて一度に多数かんをしたもの、これ等の徳利は皆丹波の陶工達が考え出した独得のものである
4.今は遠い風習となった、女が結婚すれば必ず歯を黒く染めた用器のおはぐろ壺、唯一の夜の光であったあんどんの灯明油入等は昔を偲ぶよすがとして一見の価値があろう。 外にもいろいろと説明を要するものがあるが、兎に角綾部市民の方々、特に「文化財を守る会」の会員の各位で、まだ見ていない人には是非一度鑑賞をおすすめしたい