高津八幡山城    高津町    駒札一覧表へ   綾部の文化財  

福知山まで見える展望 入り口に建つ案内図 横堀にかかる木橋 城跡の平地
高津八幡城跡標識 由良川を見下ろす北・西側の展望 山頂すぐ下の迂回路表示

会報36号 平成5年       
 高津八幡山城  川端 二三三郎 先生
 高津には将監堂高岳、それにこの八幡山の三カ所に山城がある。さらに周囲を見渡せば、東方の大島西方の観音寺、対岸の栗村などにもあって、綾部市内全域では80を越える城跡がある。これらの城の築城の時期や城主などについては、全く分からないのが大半であるが、一般には山城が盛んに作られるのは、地方武士団の再編が進む南北朝時代(14世紀)以降のこととされる。
 幕府や守護に反抗する武士団の一時的な拠点として高い山の上に築かれたものが、次第に村々との結び付きを深めて平地に近づき(平山城)、江戸時代には平(ひら)城となる場合が多い。
 八幡山城はこれまでの文献では高津城として紹介されてきたもので、今回福島克彦氏(大山崎町教委職員)の踏査によってその概要が明らかとなった。
 福島氏の調査によれば、域郭は標高151メートルの山頂部と西の尾根の部分の二ブロックに広がる。全長約300メートルの大規模な山城である。山頂部の主郭(本丸)部分は西方に向かって階段状に三段に削平され、西端は深い掘切りで仕切られ、両端が竪掘につながっている。山頂から南方にかけての尾根にも曲輪(くるわ)が設けられ、山頂部と一体となり、東側から北の斜面には畝状竪(たて)堀がいくつか認められる。この城の特徴は西の屋根にもう一つの曲輪のブロックが存在することである。山頂部の深い堀切りからさらに西方の屋根の緩斜面に七段の曲輪があり、その西端には横堀を設け、横矢がかりの工夫がこらされている。このブロックが山頂部とは後の時代に計画されたことは明らかである。
 この城の山頂部に立って見ると、八幡宮の台地北方・西方の遠望は利くが西麓の高津の集落を見通すことは出来ない。この西ブロックが増設された理由を福島氏は集落との連絡を確保するためとしている。
 さて、この八幡山城の城主は誰であろうか。江戸後期に編纂された「丹波志」には、大槻安芸守旧栢として「鴻ケ嶽(甲ケ岳)ノ城跡」をあげ、その一連のものとして、この城や高岳のことについて「本城尾続 高津八幡山ノ上二少ノ屋敷跡二段有 字二城山卜云 尾続未申二当り鷹ケ嶽二少屋敷跡有 天田境ノ山ナリ 遠見ノ古跡卜見ユルハ見渡二十五町斗有之」と述べている。
 綾部・福知山地方には大槻氏についての伝承が多いが、直接高津村にかかわると推定される大槻氏としては、応仁の乱直後の文明11年(1479)・同12年に大槻盛雅観音寺に田地を寄進したものが初出史料である.(「観音寺文書」)このころ大槻氏は国人としての地歩を固め、何鹿郡西部から天田郡東部に進出し、延徳元年(1489)には荻野氏とともに丹波守護代の上原氏に反旗をひるがえし、いわゆる「丹波国人一揆」の一翼を担っている。
 16世紀になると、大槻氏は守護代内藤氏を介して守護細川氏につながっていくが、その最も華やかな舞台は、永正4年(1507)5月、時の管領細川改元を高津に迎えた時であろう。このころ若狭守護の武田元信丹後の一色義有を攻めるために政元に来援を乞い、奥州に下向しようとしていた政元澄之・澄元二人の養嗣子をひきつれ、急遽若狭から丹後に出陣した(「細川大心院記」)。
 丹後ノ陣無一途ノ間 自身可有御合力ニテ五月中旬ノ比若狭国ヲ御立アリテ 丹波国何鹿郡高津卜云所二御陣ヲメサル
 「細川大心院記」には政元は高津、澄之は牧、澄元は丹後田辺に宿陣したと述べているが、「観音寺文書」によれば澄元は観音寺に、政元は上高津の隠竜寺に宿陣したとある。いずれにしてもこの丹後攻めの時、高津界隈は月余にわたり管領らを守るため最大の防衡陣が固められたことであろうが、このなかで八幡山瀬がどのような役割を果たしたかを記したものはない。
 戦国時代の後期、山城は郷村を基盤とする土豪の拠点として、その本領を発揮する。八幡山城鴻ケ嶽城とは別個の、自立性の強いものとして補強されて行くのはこの時期であろうが、それを確認するにはさらに精密な調査が必要である。