光明寺  睦寄町  綾部の文化財一覧表へ   綾部の文化財 

光明寺二王門(国宝)
 寺伝では白鳳八年(680)の建立としている二王門は昭和25年からの修理によって鎌倉時代の建築であることが確認されました。修理は永年風雪に堪えて来たため大破寸前の状況で解体修理が行われました。その結果、上層背面中央の左柱に「宝治二年戊申」の墨書銘と一重天井板に転用されている棟札を発見し、仁治三年(1242)着工し、建長五年(1253)竣工した様子で、宝治二年(1248)を建立年としています。
 修理に伴い発見されたものに順礼札があります。これは木札で、納め札とも言いますが、現在では紙札で霊場参拝の印とするものです。この他に中世の「のみ」仁王像彩色の記録板などがありました。また、門の修理年代を知ることができ、永正十三年(1516)、享保十四年(1729)、安政六年(1859)の三回であることがわかりました。
 昭和27年10月竣工をとげた二王門は、三間一戸(柱間三、戸口一)二重門入母屋造栩葺で、昭和29年国宝に指定されました。
 (参考)京都府内の国宝の門は、北区:大徳寺唐門 東山区:豊国神社唐門 東福寺三門 下京区:西本願寺唐門 南区:教王護国寺(東寺)蓮花門 伏見区:醍醐寺三宝院唐門屋根が栩葺なのは全国的にも珍しく、長さ二尺五寸(約76センチ)、幅八寸(約24センチ)、厚さ八分(約2.5センチ)の栗板4500枚を三重に重ねたものです。日本では比叡山延暦寺根本中堂(もとは栩葺)の回廊と吉野の水分神社に例があります。
 栩葺は板の厚さ9〜30ミリのものをいい、それより薄い4.5〜6ミリくらいのものを、木賊葺、まだ薄く厚さ1.5〜5ミリぐらいの割板にした柿葺などあります。参考に掲げた門は檜皮葺・本瓦葺であります。屋根以外の用材はほとんど杉で、修理はなるべく古材を用い、新材は三割程度で取り換えた二本の大柱は木曽産のものです。

君尾山 光明寺
 綾部市の中心部から東北方の睦寄町に君尾山があります。この山は標高581メートル、その中腹に真言宗醍醐派の光明寺があって1400年の法燈を護っています。
 寺伝によりますと、推古天皇七年(599)聖徳太子(574〜622)の開創、その後天武天皇の白鳳元年(673)役行者小角修験練行の道場とし、醍醐天皇の延喜年中(900年頃)醍醐寺開祖である弘法大師(774〜835)の御孫弟子にあたる聖宝理源大師(832〜909)が秘教の大道場として中興されたといいます。
 光明寺の最も栄えたのは恐らくこの平安時代から鎌倉時代へかけての時期で、山上山下七十二坊の大寺院を形成していたものと思われます。
 室町時代に下ると大永七年(1527)十一月、戦国時代の動乱で軍勢乱入し、二王門を除く本堂、三重塔、法華堂、常行堂、鎮守拝殿、行者堂、鐘楼及び坊舎を焼失したことが六年後の天文二年(1533)の光明寺再興勧進状に記されています。再建は上林の豪族上羽丹波守(位牌あり)と寺では伝えています。その後、元亀三年(1572)、天正七年(1579)と明智光秀(〜1582)が何鹿郡へ兵を進め光明寺を攻め焼いたようで、これを機に衰亡し梵鐘は土中に埋没するに至りました。
 慶長六年(1601)藤懸永勝公(1557〜1617)が上林6000石の領主となり興隆に寄与せられ、大梵鐘を掘り出したが音響不良なので改鋳したのが現存の梵鐘で400年前のものです。
 江戸時代は領主藤懸氏の庇護を受けました。その後、山上の寺坊も十七に減じ享保十八年(1733)山下の二十三坊も焼失、天保七年(1836)現在の本堂が建立されましたが明治初年山上の四坊も一寺となってしまいました。その上、大正三年庫裏、方丈、客殿を焼失、現在の庫裏大正五年に建てられたものです。

指定文化財 国宝 光明寺二王門 1棟 建造物 鎌倉時代
京都府指定 光明寺本堂 1棟 建造物 江戸時代
京都府登録 光明寺制札 2枚 古文書 室町時代
京都府指定 鰐口 1口 工芸品 室町時代
綾部市指定 宝篋印塔 1基 建造物 南北朝時代
綾部市指定 紙本墨書勧進帳奉加帳 1通・1冊 古文書 室町時代
光明寺参道 山道(石段)の途中のお堂 国宝 二王門
二王門(国宝) 二王像
二王門(裏側) 地蔵さん 八十八ケ所 地蔵堂(参道右)
八十八ケ所 地蔵堂(参道左) 樹海の間から二王門 咲き乱れる牡丹桜
庭園 庫裡 樹木に囲われる古い石段
本堂(京都府指定) お堂 宝篋印塔(市指定)
梵鐘(400年前) 御堂
会報第12号 昭和52年1月1日
光明寺の梵鐘について
 綾部市内には江戸時代鋳造の梵鐘は極めて数少なく、その殆どが戦後のものであって江戸時代以前のものはどこにも見あたらない。唯一口鐘銘より推して、もと何鹿郡にあったと思われる鎌倉時代の梵鐘が、舞鶴市字観音寺に現存しているので参考に供したい。
 「丹波国何鹿郡□□庄 □□□□□□□ 大願主□□□□□ □□□□□□ 延慶元年(1308)戊申十月二十日」と陰刻されている。□部分は明らかに削り取られた痕跡がみられる。
 「日本古鐘銘集成」によると、
 「丹波国何鹿郡印内庄 □□□輿福寺鐘 大願主□□□□□ □□□□助□□ 延慶元年戊由十月二十日」と出している。
 いずれにしても鎌倉時代 何鹿郡にこの梵鐘を有した寺院が寄在してり、その後、宮津の経王寺・国清寺・如願寺・舞鶴の観音寺へと転々とした経緯がみられるのである。
 この梵鐘は秘められた歴史を窺い知ることのできる貴重なもので、交通の便・運搬の便など不便な時代に、相当な重量のものを移動させるということは至難の業であったことだろう。また移動きせざるを得なかった事情を堆察するとき、その背景に流れるものは何であったのだろう。などと興味をそそるものである。
 梵鐘をここで取り上げたのは、金工品としての文化財の一つとして改めて認識すべき価値あるもの、といった観点からである。
 きて光明寺の梵鐘についてであるが、井上益一氏の「建田のこんぴらきん」にも出されているように、藤懸永勝公は慶長六年に上林六千石の領主として入部.当時光明寺は衰運の一途を辿っており、大梵鐘は土中に埋るほど衰えていた。入部以来永勝公は光明寺の興隆に寄与せられ、梵鐘を掘り出して撞いてみたが音響不良なので、慶長九年九月二十日本堂境内で改鋳した。これが現存の梵鐘である。
 「丹波国何鹿郡上林庄 君尾山光明寺 上林地頭 藤懸美作守永勝公 添力
為寺中鐘 奉鋳者也 慶長九甲辰歳九月吉日良辰 撞始近藤仁左衛門上
橋本坊 慶秀清運、岩本坊  屋妙栄、東蔵坊 粟野村竹内、上西坊 妙巌、仙識坊 妙西、密蔵坊 妙金、中小路坊 道慶、藤室坊 道清、玉清坊 知久、東上坊 小法、谷上坊 妙香、浄賢坊 林喜兵衛、聖春坊 吉祥坊 寺僧32人 ト院 学海情久 杉谷坊
 この鐘銘にみられるとおり慶長九年(1604)藤懸美作守永勝公の助力によって梵鐘が改鋳され、盛大な儀式が営まれたことであろう。当時の坊数十六と寺僧32人のほか寄進者名が刻まれている。
 撞初めの近藤仁左衛門は恐らく鋳物師であったと思われる。
天文二年(1533)から始まり享保十年(1725)に終わる「再建奉加帳」によると、慶長九年九月の記事はなく、改鋳に関係する記載も全然見当たらない。ただ、慶長年代には鐘銘に出てこない坊として、「東遠坊」があり、寛永の頃には「北之坊」「ふもん坊」「泉蔵坊」などがあるところから、特別な方法で鋳造がなされたとみるべきであって、十六坊だけでなかったことがわかる。
 時代が下って慶長から八十年後の貞享三年には二十七坊があって、鐘銘の内六坊が存在している。このように鐘銘から当時のようすをさぐることは困難である。       
鰐口(指定) 市内睦寄町 光明寺
 面の径41センチ、肩厚11.5センチの鰐口で、本寺の本堂の正面に懸吊してある。刻銘によって応永十七年(1410)に若洲(若狭)上釜屋で作られ、当初より光明寺の什物として備付けられたもので、銘文からの資料性も貴重で室町時代の注目すべき遺品である。府文化財保護指導委員 山下潔美
会報第27号 昭和63年10月5日
光明寺制札 二枚(美術工芸品中の古文書)
 その一は嘉吉元年(1441)、他の一は文明十年(1478)のもの二枚で、嘉吉元年のものは、8月25日、細川持之が、文明十年のものは、8月18日細川故国光明寺に下した正文の写であろう。
 制札政治的軍事的権力者が、諸人に禁止事項公示する文書で、内容は、軍勢の濫妨浪籍陣取寄宿山林竹木の伐採莉田放火などを禁止し、戦乱による 害から寺社人民安堵をはかるものが多い。二枚とも風化がはげしく、読み難い字句が多いのは惜しまれる。