会報第12号 昭和52年1月1日   光明寺HP   睦寄町  綾部の文化財一覧表へ   綾部の文化財
光明寺の梵鐘について
 綾部市内には江戸時代鋳造の梵鐘は極めて数少なく、その殆どが戦後のものであって江戸時代以前のものはどこにも見あたらない。唯一口鐘銘より推して、もと何鹿郡にあったと思われる鎌倉時代の梵鐘が、舞鶴市字観音寺に現存しているので参考に供したい。
 「丹波国何鹿郡□□庄 □□□□□□□ 大願主□□□□□ □□□□□□ 延慶元年(1308)戊申十月二十日」と陰刻されている。□部分は明らかに削り取られた痕跡がみられる。
 「日本古鐘銘集成」によると、
 「丹波国何鹿郡印内庄 □□□輿福寺鐘 大願主□□□□□ □□□□助□□ 延慶元年戊由十月二十日」と出している。
 いずれにしても鎌倉時代 何鹿郡にこの梵鐘を有した寺院が寄在してり、その後、宮津の経王寺・国清寺・如願寺・舞鶴の観音寺へと転々とした経緯がみられるのである。
 この梵鐘は秘められた歴史を窺い知ることのできる貴重なもので、交通の便・運搬の便など不便な時代に、相当な重量のものを移動させるということは至難の業であったことだろう。また移動きせざるを得なかった事情を堆察するとき、その背景に流れるものは何であったのだろう。などと興味をそそるものである。
 梵鐘をここで取り上げたのは、金工品としての文化財の一つとして改めて認識すべき価値あるもの、といった観点からである。

 きて光明寺の梵鐘についてであるが、井上益一氏の「建田のこんぴらきん」にも出されているように、藤懸永勝公は慶長六年に上林六千石の領主として入部.当時光明寺は衰運の一途を辿っており、大梵鐘は土中に埋るほど衰えていた。入部以来永勝公は光明寺の興隆に寄与せられ、梵鐘を掘り出して撞いてみたが音響不良なので、慶長九年九月二十日本堂境内で改鋳した。これが現存の梵鐘である。
 「丹波国何鹿郡上林庄 君尾山光明寺 上林地頭 藤懸美作守永勝公 添力
為寺中鐘 奉鋳者也 慶長九甲辰歳九月吉日良辰 撞始近藤仁左衛門上
橋本坊 慶秀清運、岩本坊  屋妙栄、東蔵坊 粟野村竹内、上西坊 妙巌、仙識坊 妙西、密蔵坊 妙金、中小路坊 道慶、藤室坊 道清、玉清坊 知久、東上坊 小法、谷上坊 妙香、浄賢坊 林喜兵衛、聖春坊 吉祥坊 寺僧32人 ト院 学海情久 杉谷坊
 この鐘銘にみられるとおり慶長九年(1604)藤懸美作守永勝公の助力によって梵鐘が改鋳され、盛大な儀式が営まれたことであろう。当時の坊数十六と寺僧32人のほか寄進者名が刻まれている。
 撞初めの近藤仁左衛門は恐らく鋳物師であったと思われる。
天文二年(1533)から始まり享保十年(1725)に終わる「再建奉加帳」によると、慶長九年九月の記事はなく、改鋳に関係する記載も全然見当たらない。ただ、慶長年代には鐘銘に出てこない坊として、「東遠坊」があり、寛永の頃には「北之坊」「ふもん坊」「泉蔵坊」などがあるところから、特別な方法で鋳造がなされたとみるべきであって、十六坊だけでなかったことがわかる。
 時代が下って慶長から八十年後の貞享三年には二十七坊があって、鐘銘の内六坊が存在している。このように鐘銘から当時のようすをさぐることは困難である。