仁王像始末記  綾部市教育委員会  坂根 義夫 氏 覚応寺HP 山家・旭町寺の前  綾部の文化財一覧表へ  綾部の文化財
 綾部市山家地区旭町と云えば、山家の町並みを過ぎてしはらく行くと道の両側や、山ぶところに農家がまばらに見える最寄りがあります.上林川は時折り岩肌の中を流れているのが右下に見えます.此処が旭町です.

 山家谷藩菩提寺 覚王寺全景

 部落の中央、街道から左手に石段があつてそれに続く山門、塀で囲まれた寺内には農家に比して一きわ大きな草葺きの庫裏と瓦屋根の本堂が見えます.境内の巨木も・・府道より見上げる塩谷山覚応寺は往時山家城主谷家の保護を受ける壇寺として、いかばかり威容をを持つていたことでしようか.禅寺として珍らしい仁王像を有し、末寺十三ケ寺を持つ地方随一の中本山も星移って今、檀家約四〇戸、資産もなく細々と寺院の体面を保つている様はまことに哀れであります.

 「仁王像が売られるそうな」こんなうわさを耳にしすぐさま山家に入りましたのは秋も稲刈最盛期頃でした。寺総代四方吉三郎氏宅は上林川に添つて山家でも一番奥です.漸やくたづねて来意を告げ様子を伺いましたが、想像していたとおり数少い檀家では大きな寺の維持は出来ぬ、庫裏の草葺屋根葺替えも毎年一部づつ資材、資金、労力の持寄りでやつて来たが、四苦八苦の有様、その上本堂、山門等々管理せねはならぬとあつてはとても耐えられるものではありません、まあ聞いて下さい、本山(妙心寺)からの寺割一つ取上げても寺格が上なので多額の納入を強いられるのです.とのことで聞くものすべてどうにもならねことはかりです、「もちろん仁王さんを売るようなことはやりたくないし残したい気持は充分なのですが」と残念な様子です.然しこちらも同情や感心はかりもしておれませんので、綾部には数少ない仁王像である上に文化財として価値あるものであり、第一に文化財を守ることの大切さから文化財を守る会としても困る、と訴えつゞけて帰りました.

仁王さんのいない山門

 それでは此の仁王像が文化財としてどんな歴史を持ち又価値があるのでし上う.十一月末から十二月にかけて府文化財保護課佐々木技師、国立京都博物館井上技師の話しを総合して皆様にお伝え致します。
 解体修理などあつて確実な資料が判明する時はそれに随うとして、仁王像の制作時期は鎌倉期であります.これは平安朝風を多分に模していることと合せて運慶等の影響も又受けているからです。有名な奈良東大寺の仁王像を制作した運慶等の作柄を奈良風とするなれば、平安朝時代の作風を取入れこれを受継いだものを京都風ということが出来ます。この点覚寺仁王像は京都風というべきものでしよう。運慶等全国にある第一級国宝仁王像に対して此の像は、その次に位する貴重な像で重文級ということが出来ます.作者は二人(師と弟子)の合作で向つて右のものは豪壮で強力な感じが顔などに充分出ており師の作、左のものは全体におとなレい感じがする上に左足が外側に開き過ぎているまずさからも弟子の作と考えられます.
 兎に角此れは中央仏師の製作したもので、地方仏師のものではない.仁王像を中央(京都)より運んだか又は中央から仏師を招いて作らせたかでしよう.このように聞くと益々仁王像を放置して朽ちさせてはならぬ、海外流出などもつての外と憤りが出てくる.然し傾きかけた山門、腕その他の継ぎ目が随分空いて見える像、ほこりと虫食い甚だしい像の体、足、何とかしなければという感一しほ致しました。

大石の並ぶ 谷藩累代の奥都城

 惜しい事ではあるが、百万手段は寺総代としても、市教委としても、府としても、又気にかけて我が事のように心配していただいた方々も尽くしていただきましたが、仁王像は契約通り美術商横山氏が買取ることになりました.唯救われましたことは、美術商横山氏の理解と府文化財保護課、国立京都博物館の骨折り、寺総代さん等の努力によつて海外流出をまぬがれ、一先づ国立京都博物館に安置することに決定したことであります.

 移転は一月二十三日天気は悪くありませんが残雪のある寒い日でした.当日は夫々大勢の人達が見守るうちに移転がはじまりました。先づ仁王さんの腕をはずす、みんなで仁王像を持上げて台から足をぬく、柵外に出して横にする、顔から白布で包む、腹をふとんで巻き網でしばつて担い上げるようにする.そして足にわらじを着けました。充分心得て一同で一歩一歩石段を降りましたが一体に約一時間です.ニ体とも宇都宮市から回送して来た美術品輸送車に無事乗せ終わった時は正午をかなり過ぎておりました.挨拶もそこそこに仁王像は京都に向いましたが、見送る人々、ことに長年親しんで拝された方達の心はどんなだつたでしよう
「仁王さん永年の農村鎮護御苦労様でした.住みなれた寺を出ることはつらいでしようが、どうか京都でおしあわせに」こんな気持ではなかつたかと思います.冬枯れの野を行く車、見送る農夫の疲れた顔、何もが過疎を表徴するものばかり、やがて我にかえつた人々は寒風すさぶ空きよな山門を見返り見返り散って行きました.