会報第25号 昭和62年4月20日    綾部の文化財一覧表へ   綾部の文化財    位田高城山登頂記へ
位田高城山   大槻 哲雄
 綾部駅のすぐ西の井倉踏切を渡って北へ向うと、七百米ぐらいで由良川位田橋に出る。対岸に数段に連らなった小奇麗な山が立ちふざがっている。これが位田高城山である。
 向って右の一番高い峰は標高212米。尾根を左へ段々に下り、次の盛り上った左の峰が、地元の人は「低城(ひくしろ)」と呼んでいるが、正しくは「古城(ふるしろ)」と言う標高150米の山である。
 高城山へ登るには、位田橋の北詰を右手へ約百米。そこに小さな道案内板が立ててあるので、それに従って民家の開の小径を山に向って歩けば、約25分ばかりで頂上に着く。まだ、十分整理されていない細い山道で、途中に急斜面もあるが迷うことはない。
 頂上は百平米余り、二段の削平地になっていて、一見して城跡であることが明らかだ。尾根づたいに古城まで行くことも出来るが、まだ道は整備されていない。
 頂上からの眺望は実に素晴らしい。眼下には、豊かな水が静かに流れる由良川の向うに綾部の市街地が箱庭のように見える。そして、西の方はよく開け、福知山兵庫県境の高い連山が望まれ、又、北側はすぐそこに広々とした以久田野大江山丹後の山々が、東には工業団地予辺地や弥仙山頭巾山など丹波の山波が一望出来る。
 この山の歴史は文献が少ないので詳細は不明であるが、中世の山城典型的な要素を備えている点から、その道の専門家たちには高く評価されているものの一つである。
 文亀三年楞厳寺再建之縁起文の中に「・・爰二延徳元年己酉歳(1489)十一月六日、荻野大槻諸牢人卜為リテ当国ノ守護代上原豊前守、同紀伊守父子へ訴訟卜号シ謀判ヲ企ツ 城郭ヲ構へ朝敵ヲ致ス……略……翌年庚戌六月廿八日ニ位田城へ、国中守護勢ハ申スニ及バズ諸侍ハ兵革ヲ調へ思々ニ出立 ……云々…」と、
 この縁起文に記された位田城の攻撃は、丹波国一揆に一連する戦いで荻野大槻氏が守護代上原氏に対する反乱、即ち「位田の乱」なのである。上原豊前守の軍勢は、但州摂津備州など十三ケ国の大軍をもって位田城荻野、大槻氏を攻めたてたが、位田方の攻撃は強く、楞厳寺縁起延徳二年七月三日の蔭涼軒日録などによると、「七月三日火攻メスルモ城ハ陥チズ、寄セ手ノ討死数十人、負傷音数知ラズ」とか、「攻メ方百余人討死シ、負傷者ハ五百余人、城方ハ五、六人討死」などとある。
 何れにしても難攻不落であったようだ。然し、明応二年(1493)執拗に抵抗を続けた荻野大槻の両氏も遂に敗退し、位田の乱は終わった。
 北野社家日記同年十一月十日の条に、「丹波位田城、今日自ラ放火之由注進在之」とある。その後の荻野大槻両氏については定かではない。
 高城山をめぐる古老の伝承も数点残ってはいるが、何れも極めて簡単な、たわいのないものばかりである。
然し、「位田の殿さんは南朝方であった」とか。「古城には荻野彦六が居た」と言った話が、何百年ものあいだ語り継がれていたと思うと、言いようのないロマンを感じるのである。

 今、社会は目まぐるしく変転し、人情も日ごとに薄れていく中で、ふる里志向は高まり、郷土を愛する心情の育成が強調されるようになってきた。当位田地内でも、「高城山を位田の象徴とし、より親愛感を深め、郷土を愛する青少年の育成に役立てよう」

高城山(右)と古城(左)

との考えから、有志によって「位田高城会」が結成された。

子供会太鼓保存会の活動の中に高城登山を組み込んだり、高城会によって山頂に桜やサツキ、モミジ等の植樹をし美化整備を進めたり、登山案内板の設立や登山路整備、又高城山を中心にした位田の歴史の学習会等々、計画実践を進めている。高城山一帯が、全綾部市民の郷土の山になることを夢見ながら……。