淵垣八幡神社   八田 淵垣町  綾部の文化財一覧表へ  綾部の文化財

村社 淵垣八幡宮 国道27号線より 鳥居と本殿 本殿と摂社
本殿(府登録文化財) 本殿額 八幡神社 二宮神社 室町時代の府登録文化財
淵垣八幡神社本殿    梅原三郎先生の「綾部市史」から抜粋
 本殿は三間社流造の建築で、元文四年(1739)に淵垣村の氏子講中が再建したものである。身舎と向拝の各柱間に備えられた幕股は、割合良く整った形を持ち、この地方における江戸中期ごろの特色をよくしめしている。
 この社殿の注目される点は、一部に江戸時代以前のかなり古い細部形式を持った古部材が遺されていることである。
 向拝部分は全く江戸期のものであるが、身舎部分では身舎の円柱十二本・長押・頭貫・大斗および妻飾りの大瓶束・花肘木などが古材として指摘できる。また身舎内部の内外陣を区画する板扉や幣軸などもこれらと同じかそれに近い古さのものと考えられる。
 身舎の柱位置は古い時期のままと考えられるが、もとの隅柱を内柱にするなど相互間の転用が認められるから、旧規を踏襲し、前身社殿の遺材を利用して建て直ししていることがわかる。
 社蔵の元文四年棟札には、康永二年(1343)に建った社殿が年を径たので、破損したところを改めて再建したという意味の事がかいてある。
 現に康永二年の古棟札がのこり、元文に至るまで焼けなかったようだから、前身社殿は康永二年の建立と考えられる。
 古材の時代性を最もよく示すのが妻飾りに用いられている大瓶束と花肘木の形式である。大瓶束頂部を飾る花肘木は絵様をもたず、繰形も単純で直線的なものであり、上端は水平である。大瓶束は断面円形で頂部はゆるやかな粽(ちまき)を持ち、足もとは直線的にすぼまり、両側をえぐるだけの簡単な装飾にとどまっている。これらの形式は禅宗様に属するが、それらの類例と比較すると、鎌倉末から南北朝にかけてのころの禅宗様初期の古制を示していることがわかる。
 柱貫木鼻と大瓶束頂部から棟行にでる木鼻の形に特徴があり、花肘木の場合と違って上端が先方で一段もり上がっている。おの上には現状と同じく連斗をおいたと考えられるが(連斗・巻斗には古いものがない)、大斗と連斗との高さ位置を調整するためにこうした手法が用いられる。
 ただ、一般にはこのもり上がりは一材から造り出されるのであるあるが、ここではもり上げ部分は別木をはぎ合わせてつくっている。禅宗様では頭貫は台輪をうけるために必ず上部が水平になるが、ここでは台輪を用いないものの頭貫は本来の技法にしたがって水平につくられ、ついで必要なもり上げ分をはぎ合わせたものと思われる。このように考えると、当社のこうした手法が定着するに至るまでの過渡的な例であろうと考えられる。
 当社所蔵の康永二年の棟札によると、この造営は、当時の丹波守護仁木頼章によるものであり、「所願成就」と云ういい方からしても、頼章側から積極的にすすめた事業であったように思われる。
 造営の実際当たっては頼章の家人と考えられる沙弥某と僧慶秀とが奉行となった。仁木頼章がこの造営をおこなった意図は明らかでないが、足利尊氏によってこのころおこなわれた篠村八幡宮(現亀岡市)の造営にならったものであろうことがまず考えられる。
 この社のある八田郷は良く知られるように足利氏にとって因縁のある土地であり、光福寺(後の安国寺)や岩王寺などすでに尊氏の庇護を受けていた寺院もあった。この地が社地としてえらばれたのもこうした背景にもとずくものとおもわれる。
 こうしたことを念頭においてもう一度この社殿をもにみなおすと、注意されてくるのは、この社が三間社であることと禅宗様の混入が強いという二点である。中世における社格は複合した諸要素を元に定まってきたものであろうが、それらの諸要素の中でもとりわけ施主の地位というものが大きな比重を占めたと考えられる。
 近世の例をみても、村人達によってのみ奉祭される神社は、たとえ規模が大きくても一間社で在る物が多く、官社的な性格を帯びるものや、権門勢家を願主に仰ぐものには三間社・五間社であるものが多い。中世でも同様のことがいえるのであって、丹波の場合でも丹波一宮である出雲神社本殿(1445建立)は三間社であるが、名主を施主とした梅田神社本殿(1338建立)は一間社である。こうしてみると、社殿は三間社であることは、淵垣八幡宮は頼章にとって大事な意味を持つ高い地位を与えられた神社であったことをかんがえさせる。
 つぎに禅宗様混入の事であるが、丹波地方で禅宗様細部が和様建築の中にとりいれられる例は、嘉暦2年(1327)建立の大福光寺本堂において見られ、ついで梅田神社本殿において認められる。淵垣八幡神社はこれらにつずづく例であるが、前二社が比較的末梢的で部分的な取り入れ方で在るのに対し、ここのは構造的なもにまでおよび、かすより純粋な形での禅宗様がとり入れられている。禅宗様導入の問題は、施主、造営奉行、工匠等にかかわることなのだが、この場合施主が守護であるということは大きな意味をもっていると思われる。
 守護の権力によって工匠の自由な起用もでき、新様式の導入もより容易であったろうからである。棟札において大工の姓名が明らかにされないのは残念だが、「大工」の文字の下に「藤」らしき文字が見え、その下の字は「井」と読めないから「藤原」ではないかと考えられる。室町時代以降は番匠大工の大部分が「藤原」を名のるが、南北朝以前においてはかならずしもそうでない。したがってある程度その姓から系譜をたどることもできようが、丹波全体として知られうる資料がすくないのでおよそのことも今はいえない。ただ篠村八幡宮の創立時の大工が藤原為貞であったが、(篠村史)尊氏ー頼章のラインでこの大工が来た可能性もあり得ることを指摘しておきたい。
 なお
棟札の最初に書いてある「天地八陽神呪経」とはインド伝来の古い仏典の一つであるが、このような字句がとりあげられていることの意味を考えなければならないが、この点は後考をまちたい。西丹波地方は中世の神社遺構が非常に乏しい。その中で、部分的にしか残っていないとはいえ、南北朝にさかのぼる遺構が存在していたことの意義が大きい。それだけでなく、様式史的にも面白く、造立事情もほぼ知られるという点でも貴重な遺構である。
指定文化財 京都府登録文化財 八幡神社本殿 建造物 1棟 室町時代

資料提供の四方續夫事務局長追記:恩師・梅原三郎先生の「綾部市史」から抜粋。娘で同級生の「しのぶちゃん」に読んでもらいたいと思っています。
鶴の彫り物(左袖) 亀の彫り物(右袖) 摂社