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久櫨山長楽寺
代務住職 藤原一春師
所属宗派 曹洞宗
本 山 永平寺・総持寺
本 尊 薬師如来
長楽寺は、今日までに不幸にも二回(一回は年代不詳、二回は明治廿年)大きな火災に遭い寺院の凡てを全焼し、古い記録や古文書、過去帳、什物等の一切を焼失してしまったのである。古老の話によると、各檀家の位牌や墓石を調べて過去帳を再製したといわれている。
現在の本堂や庫裏などは、柱も細い焼普請であるが、焼失二年後の明治二十二年に檀家の浄財によって再建されたものである。
鬼退治と源頼光の伝説
今から996年前、一条天皇の正暦元年(西暦990年)源頼光が大江山の鬼退治を無事に終っての帰り道、この長楽寺にお参りして休息をとったと伝承されている。
この時、頼光が杖についていた槌の木を境内に挿しておいた処、その櫨(はぜ)の木がやがて芽を出して、遂に見上げるような大木に成長したといわれ、このことによってこの寺の山号を、櫨の名をとって久櫨山長楽寺と名づけたと伝えられている。
昭和五十四年、福知山市史編さん室が資料収集する中で発見された「丹波志何鹿郡之部」寛政六年著(今から193年前)に、「その櫨の大木は年ごとに香りある花を咲かせていたが、50年余り前に枯れた」と記るされている。即ち、今から250年程前に枯死したことになる。
又物部村誌によると「その時、源頼光は大江山の鬼退治の大願を成就したお礼に、頼光の守り本尊であった″薬師如来″を奉納したと伝えられ、その仏像の大きさは約10センチ程のもので金と銅で作られており、この薬師如来は二回に及ぶ大火にもかかわらず、幸い焼失をまぬがれて、長楽寺の本尊様の胎内に今も尚安置されている」としている。
大江山の鬼退治物語りは、麻呂子親王説と同様の伝説であるが、この伝説に登場する源頼光は確実に実在する人物である。
丹波史年表によると「第66代一条天皇の正暦元年三月廿六日、源頼光等は、千丈ケ嶽の岩窟に於て酒呑童子を討ち大江山の山賊を滅す」と書かれている。 頼光四十三才の時であった。
その後、頼光は武略にたけた人物として、時の関白藤原氏の信任も厚く、多くの国々の国司を歴任し、治安元年七月廿四日摂津守として七十四才で死去している。大江山の鬼退治をしてから31年目のことである。
長楽寺(聖観音)の開創
仏教が日本に伝来したのが西暦552年であるが、その47年後の599年には、綾部市で最も歴史の古い君尾山光明寺が聖徳太子によって開創されている。
次の年表で示すように六世紀から十世紀にかけて、特に平安遷都と相前後してこの地方には多くの寺院や神社が創建されている。
近辺の寺院文書や多くの資料を総合すると、長楽寺も高屋寺や満福寺と同じ十世紀の中期に開創されたものと考えられる。
丹波志何鹿郡之部には「長楽寺本堂ノ別ニ、二間四方観音、当郡廿二番ノ札所」とある。
室町時代の何鹿郡三十三ケの札所の中には、旧物部村では二十二番長楽寺(聖観音)と二十三番高屋寺(千手観音)の二ケ寺が選ばれている。
源頼光が長楽寺にお参りしたのが990年であるから、長楽寺が開創されて約40年後のこととなる。
二十二番 長楽寺 巡礼歌として
人の世を すへ葉ながらひ この寺の みのりの花と 長き楽しみ
足利尊氏が幕府を開いた1336年頃から南北朝時代となり、明徳三年(1392)に南北朝が合体している。その頃から民間の札所巡りの風が盛んになり、西国三十三ケ所にならい国ごとに三十三ケ所、郡ごとに三十三ケ所の霊所を定めて巡礼するようになり、後花園天皇永享の頃は特に盛んであったといわれている。
長楽寺(聖観音)は何鹿郡二十二番の札所となって、当時は参拝者で大いに賑わったと記録されている
然し時代の流れと共に、寺運の消長と盛衰を重ねて小庵となり、室町時代の末期を迎えたのである。
現在の本堂の裏山に、往時の観音堂の屋敷跡が残っていたが、圃場整備(昭和60年)で裏山を削ったので今はその跡を見ることが出来ない。
久櫨山長楽寺に関する文書 丹波志何鹿郡之部によると、 「久徳山長楽寺 禅宗 新庄村丹後加佐郡天田内村常光寺末、往古小庵ナリ、本尊古キ金仏定朝ノ作、薬師如来立像五寸二分ナリ」云々略。
常光寺 天田内村(大江町誌) 寺伝では「明徳元庚午年(1390)春丹波国永沢寺開山通幻和尚開基」とあり、通幻和尚十五代の法孫、橘州宗曇和尚の二代目賢山天長和尚は綾部市新庄に長楽寺を、五代目覚山温知和尚は大江町金屋に林泉寺を開山したとある。
林泉寺 大江町金屋
寺伝では「宝暦十庚辰年(1760)三月、常光寺四世覚山和尚開山、寛政五年(1793)常光寺七世大淳和尚中興卜称ス」とある。
最近確認した長楽寺の本堂上梁記の一部に「吾山の創業は賢山天長禅師である。これを継ぐこと200年余に及ぶ、中二回の火難に遭ふ」(意訳)としている。(明治22年旧4月9日上梁) 以上の古文書や寺伝その他の資料によってみるとこの長楽寺は開基も古いし、往時ば相当隆昌した寺院であったことが推察される。その後幾多の起伏を経て天正年代常光寺の末寺として賢山天長和尚によって開山中興したことが確認出来る。
その後住職も十一世となり、現在は代務住職藤原一春和尚が就任している。
即ち長楽寺は薬師如来を本尊として、道元禅師(高祖承陽大師)、宝山禅師(太祖常済大師)を両祖と仰ぎ檀家九十二戸、曹洞宗の教義を守っている。
為永井友水翁追善
東嶽佐藤先生
題四季の部 |
取材記
昭和62年発刊の会報第52号より、本記事を今回購入したOCRを使って収録した。
コピ−された会報で、原稿の状態が今ひとつ良くなく90%程度の正字率、かなりの修正入力を必要とした。副会長、顧問を長年お世話になった筆者の西田好三先生に原稿の所在を尋ねたが、故事務局長の山下潔美先生に全て一任、手元には残していないとのことであった。
HPはスペ−スが無限に使えるので、補充の写真撮影に西田先生宅に伺った。ご在宅で長楽寺の場所、取材のポイントなどを教えていただき、故人となられた木下礼次、山下潔美、梅原三郎先生などの活動をお聞きした。
長楽寺には住職さまがおられ、ご挨拶して取材させていただいた。白山権現など追加の資料は西田好三先生から物部村史をコピ−していただいた。 |
| 白山権現に掛けられた顎 |
山門と鐘桜
昭和39年12月16日、松岩寺「伊根町泊」(三ケ寺合併したため)から梵鐘を譲受し、翌40年には相寿寺「福知山市上荒河」(長安寺に合併)の山門と鐘楼の譲渡を受け、檀家や篤志家の寄進によって建立された。最近は檀信徒によって、大晦日の夜、除夜の鐘がつかれ、百八の煩悩を払い去っている。
また、昭和52年から毎年8月14日には境内で、地区民による盆踊りやカラオケ大会が催され、青年部の出店も聞かれて大いに賑わっていたが、最近ぽ場所を新庄町公会堂に移した。
白山権現
丹波志河鹿郡之部に「鎮守白山権現(本堂ノ二丁斗り西側ニアリ、八月祭、但し歯ノ痛ヲ止メタマウ神ニシテ近辺ヨリ参詣多シ」とある。また、権現本殿の祭壇には次の板礼がある。
| 表 |
宝暦九己卯歳久櫨山長楽禅寺 |
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裏 |
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| 奉請當山鎮守白山妙理大権現 |
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丹州何鹿郡小畑新庄村 当寺内 |
| 四月吉祥目 現住 梅香勤白 |
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白山権現は現在本堂の東側に隣接して建てられ、長楽寺及檀家の守護神として祀られている。
本堂と白山権現の間に古い庭園がある。この庭は名勝「天の橋立」の一部を模して築造した(物部村誌)との伝承がある。
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